2010.02.03UP
1月26日(火)
HPにアップしたペドロ・アルモドバルの作家論で書いているように、アルモドバルは、『ライブ・フレッシュ』(97)で映像作家として新たな次元へと踏み出し、それ以来、独自の世界観に基づく素晴らしい作品を発表しつづけている。絶好調といってもいい。ペネロペ・クルス主演の新作『抱擁のかけら』も、もちろんつまらないはずがない。

この映画を観る前に時間の余裕があれば、フレデリック・ストロースがまとめたアルモドバルのインタビュー集『ペドロ・アルモドバル 愛と欲望のマタドール』(石原陽一郎訳/フィルムアート社/2007年)を読むことをお勧めする。密度の濃いこの映画をより深く楽しむことができるはずだ。
かつて映画監督だったマテオ・ブランコは、14年前に最も大切なものとともに視力を失い、過去を封印し、名前も捨て、脚本家のハリー・ケインとして生きている。そんな彼は、細かく引きちぎられた大量の写真をいまも保管している。
この映画では、その写真の断片が貼り合わされていくように、過去が蘇る。と同時にこの映画は、アルモドバルの過去の作品や個人的な体験の断片のコラージュになっていると見ることもできる。
たとえば、ペネロペ・クルス扮するレナと彼女を独占しようとする実業家エルネストの関係は、アルモドバルが『バチ当たり修道院の最期』(83)を作るときに体験したことがヒントになっている。この映画の過去の場面で、監督のマテオが撮影する映画『謎の鞄と女たち』は、厳密な再現ではないが、『神経衰弱ぎりぎりの女たち』(88)に基づいている。
過去を封印した主人公が名乗るハリー・ケインという名前は、アルモドバルがこの映画のために用意したものではない。以前に彼は、ある目的のためにこの名前を考え出した。
『抱擁のかけら』とアルモドバルの過去の作品や個人的な体験との繋がりについては、劇場用プログラムに詳しく書いたので、ぜひチェックしていただければと思う。
そしてもう1本。ダスティン・ホフマンとエマ・トンプソンが共演した『新しい人生のはじめかた』。これがアメリカ映画であれば、筆者はそれほど興味をそそられなかったと思うが、イギリス映画であることが気になって観たら、実によくできた作品だった。

映画の導入部を観れば、監督の力量がわかる。ダスティン・ホフマン扮するのは、離婚して、ニューヨークでCMの音楽を手がける作曲家ハーヴェイ。エマ・トンプソン扮するのは、ヒースロー空港でアンケート調査をしている統計局員のケイト。
導入部では、同じ晩のふたりの体験が交互に描き出されていく。ハーヴェイは、娘の結婚式のためにロンドンに飛び、結婚式前夜の食事会に出席する。ケイトの方は、同僚が孤独な毎日を送る彼女のためにブラインド・デイトを仕組む。だが、ハーヴェイと娘、ケイトとデートの相手の間に、電話や友人知人が割り込み、ふたりはそれぞれに疎外感を味わい、同じようにひとりトイレにこもることになる。
ハリウッド映画であれば、この導入部は、面白おかしくするために、表面的で図式的なドラマになっていただろうが、この映画では、ある種滑稽でありながらも、主人公たちの気持ちがひしひしと伝わってくる。ホフマンとトンプソンの演技力はいうまでもないが、監督の洞察とセンスというものを感じる。
ジョエル・ホプキンス監督は、卒業制作の短編『Jorge』とデビュー作『Jump Tomorrow』でいろいろ賞を受賞しているらしい。脚本も自分で書いているが、アメリカ人とイギリス人に対する視点やイギリス文学に関する引用など、にんまりとするようなひねりがある。
文学好きのケイトは、冒頭からAnita Harmonという作家の小説を読んでいる。それは架空の作家だと思うが、あるイギリスの女性作家を連想させる。ケイトのキャラクター設定は、その女性作家の作品の登場人物を思わせる。
アメリカ人とイギリス人に対する視点、舞台となるロンドンの描き方、そして、その女性作家などについては、この映画の劇場用プログラムに書いたので、ぜひチェックしていただければと思う。
