アビイ・ロードの歩き方―私のビートルズとロンドン―THE WAY TO ABBEY ROAD『アビイ・ロード』のカヴァーを見ていちどはここを歩いてみたいと思った人からとくに何も思わなかった人まで、リアル・ピープルにきくそれぞれのビートルズ、そしてそれぞれのロンドン。

ビートルズブログ アビイ・ロードの歩き方 > 私のビートルズ

73.jpg

1.日本盤LP『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』。「初めて買ったビートルズのレコードがこれ。当時は日本独自のジャケット・デザインで、特に初回盤のジャケットは上部に派手な<STEREO>表示が入っていました(OP-7123)。でもこのLP、友人に貸したままになっていて今は手元になく、今あるのはその後に発売されたSTEREO表示なしのものです。中のレコード盤はエバークリーンと呼ばれた赤の透明ビニール盤で、静電気防止剤が含まれていてホコリがつきにくい素材だ、と言われていました」

 ベンチャーズのエレキ・サウンドがはやっていた中学生時代、僕はフランク・シナトラやパット・ブーンらアダルトなポピュラー歌手や、ピーター・ポール&マリー(PPM)、ブラザーズ・フォーといったコーラスの美しいモダン・フォークを好んで聴いていました。だから初めて「プリーズ・プリーズ・ミー」と「抱きしめたい」を聴いたとき、当時の印象を僕の言葉で言うと“野卑”。シャウトするほどむき出しの歌声が野蛮で、しかも女の子たちがキャーキャー騒いでるらしいし、叫びながらハモってはいるものの、オレたちがやるような音楽じゃねえなあ、と。その1年後『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』の映画が日本公開されても、女の子たちがキャーキャーキャーキャーうるさくて音が聞こえないという話だったので、そんな映画は見たくないと思っていた。どうせミーハーが見る映画だろう、自分たちがやってる音楽とは別世界だ、オレたちは今の歌謡曲をなんとかしなくちゃいけないんだ、みたいな“硬派”な意識を掲げていたわけです。

 それでもビートルズの音楽には興味をひかれたので、騒ぎがおさまった高2のとき映画館に行きました。たしかエルビス・プレスリーの映画『アカプルコの海』と2本立て。小さな町の映画館で、男友達と二人。日本の女子は慎ましやかだから、もうスクリーンに向かって騒いだりしないんじゃない? と期待しつつ。ところが数人の女の子がキャーキャー騒ぎ始めちゃった。あーあ、もうちょっと大和撫子のイメージを守ってくれよ……。ビートルズに日本の女の子たちを持って行かれちゃったみたいで、内心ガッカリでした。

 そんな彼らのアイドル的存在を見下しつつも、音楽的才能は認めざるを得なかった。初めて買ったビートルズのレコードは、その『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』のサントラです。オープニングのジャーン! という、ジョージの12弦ギターが衝撃的で、この曲ならレコードを買う価値がある、と思ったからです。彼らを“野卑”と感じた『ウィズ・ザ・ビートルズ』の頃よりも、『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』には僕を揺さぶるものがたくさんありました。A面曲はラジオでよく聴いていたので、針を落としたのはB面ばかり。生ギターのストロークがカッコイイ「今日の誓い」、ジョンの歌い方が特徴的な「ユー・キャント・ドゥ・ザット」、それから「ホエン・アイ・ゲット・ホーム」のウォウウォー、もうたまんないですよ。当時、ホコリがつきにくいという“エバークリーン”の赤いレコード盤さえもカッコイイと思えた。ジャケットに写ってるジョージのアコースティック・ギターを見て、これと同じギターを買わなきゃ!ビートルズやるならこれだ!と思いこんだり。あれはたいしたギターじゃなかったんだけどね。

 その頃には学生仲間でコンサートをやるようになっていたので、ビートルズを弾けるようになりたかった。オレたちはフォークもやるけども、ビートルズもできるんだぞ、というところを自慢したかったんですね。『ラバー・ソウル』と『リボルバー』をカセットテープに入れて毎日のように聴きましたが、これがなかなかコピーできない。当時はC-Am-F-G7程度のコード進行しか知らなかったから、PPMの曲はコピーできても、ビートルズはできない。コード進行が難解で、音楽形態さえ違うような気がしました。ようやくこれなら弾けそうだ、と感じたのは「恋をするなら」。その頃には「デイ・トリッパー」がヒットしていましたが、イントロの単音は弾けてもその後のコード進行が突飛すぎてまったく理解不能。ただ、そういう変わったモノには特に憧れていました。

 コピーするうちに彼らの偉大さを知り、少し彼らに追いついた気になっていた大学時代。でもそこに、名盤『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が登場したんです。彼らはまた進化しちゃった! 追いついたと思ったら、引き離される。やっとギターでなんとか同じ音を出せそうになったのに、またしても彼らは遠くに行っちゃったわけです。それにこの『サージェントー』を聴いた瞬間、愕然としました。音楽で食っていくには、ここまでアレンジの知識がないとダメなのか、と。その頃僕は、ビートルズにジョージ・マーティンというプロデューサーがいることを知らなかったんです(笑)。

 学生時代は音楽の授業が大嫌いで、ト音記号さえ分かっていなかった僕ですから、すぐに音楽の教室に入りました。そこでアレンジやコードワーク、作曲法など音楽理論を一から勉強した。そうしないと音楽でやっていけない、と思ったのはビートルズのおかげですね。オフコース時代に結実するコーラス・ワークは、音楽知識に基づく緻密な音の積み上げ。同じ時代にビートルズ&ジョージ・マーティンという偉大な音楽家がいたおかげで、僕は音楽を学ぶことができ、こうして今も音楽を作り続けていられるのかもしれません。

取材・文/松田ようこ

鈴木康博
ミュージシャン


1948年静岡県修善寺に生まれ、横浜で育つ。中学の頃からアメリカン・ポップスに影響され、東京工業大学時代に友人小田和正らとオフコースを結成。70年「群衆の中で」でデビューし、バンドのボーカル&ギターとして一時代を築く。82年6月の歴史的な武道館10日間公演後、オフコースを脱退しソロ活動を開始。ソロとしてアルバムを24枚リリース、またCMや劇伴音楽の制作等、幅広い活動を展開中。2000年に結成されたSong for Memories(鈴木康博・山本潤子・細坪基佳)のメンバー&アレンジャーとして参加、ライブは2月28日岡山市民会館など。またソロ・ライブ・ツアーも、09年4月19日六本木・STB139スイートベイジルなど、全国で精力的に展開中。

鈴木康博 オフィシャルサイト
http://www.omgnet.co.jp/renewal_yassHP/yass/index.html


72.jpg

1.「『オールディーズ』は小4のお正月にお年玉で初めて買ったアルバム。馴染みのある曲がたくさん入ってるし、ジャケットもかっこいい。解説書を食い入るように読みながら聴いてた。今もスタジオの玄関のところにビスで留めて飾ってあるからもうヨレヨレ(笑)。この裏ジャケの写真だけで、どんだけいろんなことを想像したか。『パスト・マスターズVol.2』は初めて買ったCD。当時CDなんて高くて買えなかったけど、横浜のディスクユニオンで中古で安く出てたから。2枚とも思い出が詰まってる」

 物心つく前の2~3歳の頃、親が商売をやってたんで昼間面倒をみてくれていた近所のおばちゃんちの息子さんがいつもビートルズをかけてて、それに合わせてよく踊ってたらしいんですよ。特に「アイ・フィール・ファイン」のビョ~ンやリズムに反応してたみたい(笑)。その後、小学校4年のときに友達の家に遊びに行ったらお父さんが聴き覚えのあるレコードをかけてて、そこで初めてあの音楽がビートルズだったと知りました。その次のお正月にお年玉で買ったのがベスト盤の『オールディーズ』。今聴いてもいいものを2歳のときに聴いて反応できた自分はすごいなぁ、と思いますね。

 それまで買ってたのは歌謡曲のシングル。アルバムはポータブルのプレーヤーだと盤がはみ出しちゃうわけですよ。で、ビートルズを聴くためにステレオが欲しいって言い出したのが中1のとき。うちにステレオが来た日は嬉しくて熱が出ちゃったもん(笑)。いまだにロープランド・スタジオ(COILの基地でもある綱島のプライベート・スタジオ)にあるスピーカーはそのときのヤマハの10M。もう30年近く使ってる。

 ある人が"初めて自分で買ったアルバムはその人を象徴している"って言ってたんだけど、俺はアナログが『オールディーズ』で、CDは後期の編集盤の『パスト・マスターズVol.2』。無意識のうちに初めて買ったものが両方ともビートルズで、しかもベスト盤。いいところをつまんである。僕、本を読むのがすごい好きで、最近は古典ばかり。死んだ人の言葉ばっかり読んでる。特に好きなのが『論語』。でも2500年前のオッサンの言った言葉を後からまとめてるから、解釈もぐちゃぐちゃなの。いろんな人の説がある。それをひとつひとつ読んでるうちに、俺はこの部分はこっちの人のが好きだな、でもこっちの部分は違う人のほうがいいな、って自分で編集し始める。おいしいところを選ぼうとする。そうすると『論語』そのままを受け入れるんじゃなくて、フレーズごとにいろんな組み合わせをした"俺の論語"ができてきたりする。ビートルズもどこに焦点を当てるかでいろんなとり方ができるし、『論語』の中の言葉が格言として生活の中に普通にあるように、ビートルズはふだん聴いてなくても頭の中でいつでも鳴らすことができる。でもそれは完コピじゃないの。ベスト盤好きで編集好きだから、いいところだけ抜き出してる。音楽を作る職業としては完璧に思い出せないほうがいい。この部分とこの部分を思い出したら、その間の部分は自分で補完したり自分の中から出そうとする。それはさっきの『論語』の解釈と一緒で、すごくクリエイティヴな作業。自分なりのビートルズが、音楽制作にいい影響を及ぼしている。この歳になってそれがわかった。ビートルズの音楽にはいろんなエッセンスが入ってるから、そういう素材としても本当に出会えてよかったと思います。

 ビートルズのすごさは他のものを聴くともっとわかる。一度宇宙に出て外から見た地球はやっぱすごいぞって思うのと同じように、他のにはまってからビートルズに戻ってくると、これを最初に好きになって本当によかったと思える。大学の頃も俺はビートルズしか聴いてなくて、友達と酒を飲みながら朝までビートルズとストーンズのいいところを言い合ったりしてたのね。ビートルズに較べて、ストーンズはカバーのセンスがすごいよかったんですよ。でも荒削りだったんで、オリジナルのマディ・ウォーターズのほうがすげぇな、とか思っちゃったりしたんだけど、ビートルズはオリジナルのチャック・ベリーよりこっちのほうがいいと思えるくらいに完成されてた。だから実はルーツにさかのぼりにくいの。ストーンズはルーツをたどって、"マディすげぇ! こんな曲を選んだストーンズのセンスもすげぇ!"って思えるんだけど、ビートルズはよそになかなか行かせないんだよ。ストーンズ・ファンの友達が"そんなんじゃダメだ"って言うから他のも聴き始めたんだけど、そしたらさらに良さがわかった。

 でも僕、パスポート持ってないんです(笑)。一度も日本を出たことがない。バーチャル・トラベラー。部屋に閉じこもって本を読んだりレコード聴いたりしてるほうが好き。写真1枚あればすごくたくさんのことが想像できる。昔からずっとそう。手品の種明かしってつまらないでしょ? 情報がないほうが頭の中で穴埋めするから楽しいの。アビー・ロードをいつか絶対この目で見たいとも思わない。でも取材とかで連れてってくれるなら、それはそれで行きますけど(笑)。

  取材・文/佐々木美夏

岡本定義
ミュージシャン


7月27日生まれ。神奈川県横浜市出身。佐藤洋介とのユニットCOILとして98年「天才ヴァガボンド」でデビュー。その卓越したソングライティング力はCOILのみならず、元ちとせや杏子などへの楽曲提供でも知られる。デビュー10周年を迎えた08年には"福耳"のニューシングルをCOILとして作詞作曲から録音まで完全プロデュース。セルフカバーミニアルバム「ギャルソン」と3年ぶりのオリジナルアルバム「Vitamin C」をリリースした。 動画配信サイト「オーガスタシアター」にて08年12月4日に恵比寿LIQUIDROOMで行われたCOILデビュー10周年スペシャルライブを配信中!

COIL オフィシャルサイト
http://www.office-augusta.com/coil/


71.jpg

1.リアルタイムで集めたのは、500円で買えた4曲入りコンパクト盤でした。アルバムは今とほとんど値段が変わらず、1800円もしましたから、とても買えませんでした。コンパクト盤は、シングルのA面曲がたくさん入っていたりして、お買い得だったんです。初めて買ったアルバムは、『ラバー・ソウル』。「ビートルズ、ちょっと変わったなあ。初期のほうがよかったなあ」というのが、当時の最初の印象でしたね。でも、聴いてるうちにすごく好きになりました。

 中学生の頃から、リアルタイムでずっと好きでした。ビートルズが音楽的才能に溢れているのは僕が言うまでもないことですが、彼らはセッション・ミュージシャン的な、ものすごくクオリティの高い技術で演奏をこなすような引き出しを持っているタイプではない気がしますね。1曲1曲、4人で20回、30回と演奏を練り上げて、その積み重ねで曲を完成させていく……そんなアマチュア的な匂いを感じます。「ラヴ・ミー・ドゥ」あたりからは、そういうエネルギーが伝わってくるんですよね。

 彼らやベンチャーズが好きで、一生懸命ギターでコピーしてましたよ。僕は自分から何かしようっていう人間じゃないから、そのままだったら普通の堅い仕事に就いていたと思うんですが、17歳のときにドラマーとしてバッド・ボーイズのRICKY(廣田龍人)に誘われたことで人生が変わりました。その頃、大阪には演奏する場所がけっこうあったんです。今みたいなライブハウスじゃなくて、そこらへんにあるような小さな飲み屋。職業としてもある程度成り立つから、そのままどっぷり入っていきました。ダンスホールのような場所で演奏したとき、東京の音楽業界の人が観に来て、「東京へ来ないか」と誘われましてね。うまい具合にそういうきっかけがあったんです。

 1973年、バッド・ボーイズはビートルズのコピーでデビューしました。レコードの音だけじゃなくて、映画『ヘルプ!』や『レット・イット・ビー』を観たりして、リンゴのドラミングをずいぶん研究しましたね。リンゴは左利きだから、普通のドラマーとは叩く手順がかなり違うんです。右利きの手順で叩くと絶対に同じニュアンスが出ないから、コピーは苦労しました。「レット・イット・ビー」のドラムが好きですね。

 別の悩みもありましたね。ビートルズのコピーだと、ヘタをすると企画もの、色もので終わっちゃいますから、ミュージシャンとしてちゃんと立つならオリジナルをやらなきゃと。ビートルズの曲を演奏しないと食べていけない。でもそれを完全に断ち切らないと、ミュージシャンとして突き抜けられない壁のようなものがある。そんな葛藤ですね。結局バンドは解散して、RICKYはオリジナルをやるためにREVOLVERを結成しました。僕は「とりあえず食べていかないと」ということもあって、安易にも、すぐに稼げるほうを目指してしまったんです。ところがしばらく別々の道に進んだ後、またRICKYとビートルズもオリジナル曲も演奏する機会に恵まれました。彼のアルバムを、2枚ぐらいいっしょにやりましたね。RICKYは強い人で、僕は後ろをついて行っただけ。彼のおかげで、音楽の世界でやってこられたようなものです。

 その後またRICKYと離れてからは、六本木のキャヴァンクラブとかでビートルズのコピーバンドをやってました。永沼忠明くんたちとウィッシングで演奏していた頃、ビートルズ・コンベンションに出場するため、リバプールに2回行ったのはいい思い出ですね。ストロベリー・フィールドでの演奏が印象に残っています。外国のオーディエンスは反応がシビアだというので心配していましたが、気に入ってもらえたし、演奏していて気持ちよかったですね。リバプールは古い街並や家の形が昔ながらに残っていて、いい景色でしたよ。ロンドンは、信号機や走ってる車の色、形とかは違っても、東京の……銀座とかとそう変わらないな、って思ったんです。

 1日4回とか6回のステージをずっとやり続けていると、行き詰まりを感じることがあるのです。それでも声をかけてくれる友だちがたくさんいるので、またステージに立つことも、なくはないんでしょうけど……まずは、練習してからです(笑)。

取材・文/鳥居一希

城間正博
ドラマー


1952年、大阪府出身。73年、バッド・ボーイズのドラマーとしてビートルズのカバー・アルバム『MEET THE BAD BOYS!』でデビュー。77年の解散から数年後にはREVOLVERに参加し、8年ほど在籍した。その後ウィッシングなどを経て、2009年1月現在は音楽活動から遠ざかっている。


70.jpg

1-3.高校時代に買ったアルバム。「『フォー・セール』(写真1)と『ラバー・ソウル』(写真2)は大好きなアルバムです。中期の入り口というか、初期の後期というか、この頃の感じが大好き。ジャケットもすごくかっこいい。「ノー・リプライ」「ノルウェーの森」「ノーウェア・マン」とか、ジョンのソングライティング・スキルと声にとにかく惹かれましたね」

 高校2年のときに先輩のバンドがビートルズをコピーしていて、それを見てかっこいいと思って、アルバムを貸してもらったり自分で買ったりしてどんどんはまっていきました。それまではベイ・シティ・ローラーズとかキッスとかクイーンとかチープ・トリックとかが好きで、『ミュージック・ライフ』や『ロックショウ』(雑誌)を一生懸命読んだり。初めて行ったライブはベイ・シティ・ローラーズの武道館ですね。もう大人路線にシフトし始めていた頃。多分ラスト・ライブだったんじゃないかな。でもビートルズは聴いてなかったんです。

 リンゴはもちろん憧れのドラマーですけど、精神世界、精神性という意味ではジョン・レノンが大好きでした。若い頃ってそういうのに惹かれがちじゃないですか。この人は他と違う、この人が考えてることが知りたい、自分の人生の指針みたいなものをこの人は与えてくれるんじゃないか、っていうある種の教祖的な憧れ。ソングライティングの面でもコード・チェンジとかで影響を受けてると思います。あとボーカル・スタイル。誰もジョン・レノンみたいには歌えないんですけど、「アイム・オンリー・スリーピング」とか、ああいう力を入れない、ちょっとオフ・ビートな、歌いこまない歌い方。歌いあげるようなボーカル・スタイルもあるんですけど、喋ってるみたいに歌うジョンのスタイルってすごいかっこいいと思って、何気に影響を受けてると思います。

 ジョンが死んだ日は雪が降ってました。中学校から帰ってきたら母親が泣いてて、“どうしたの?”って訊いたら“ジョンが死んじゃった”って。うちの母はビートルズの来日公演を見てるんですよ。父が舞台照明家で、ビートルズの武道館公演の照明も担当してたんです。当時母は父と婚約してたんで、照明室から見たんですって。それがもうものすごい自慢で、いつも“私はビートルズを見たわ”って自慢されて“チクショー!”って(笑)。母はジョンと同い年だったんで、親近感があって好きだったみたいです。だから泣いてて。私はまだビートルズにはまる前だったんで、泣くほどショックではなかったですね。

 ポールの来日公演は実は見ていないんです。でもここ2年くらいで、やっぱりポールってすごいな、と思ってきました。ずっとジョン派だったんですけど、それは太宰治にはまるみたいなもので、私も20代のとき太宰にはまったんですけど、彼は39歳で死んじゃったじゃないですか。ジョンも40歳で死んじゃったでしょう。でも私たちはその先の人生を生きなきゃいけない。だから39とか40で死んで伝説となった人の言葉は、40過ぎた我々には、それ以降の人生をどうやって生きるかの指針を与えてくれるものではないと思うんですね。精神的な意味ではあるんでしょうけど、現実的に、生き残った人にとってはどうしても太宰もジョンもどんどん伝説になってしまって、20代の頃みたいに心酔できない。ドリーム・イズ・オーバー。そうしたらポールの図太く生きて曲を書き続ける人のしぶとさ、したたかさがすごく素敵だな、と思うようになりました。自分ものさばって生き続けてやる、みたいな(笑)。ポールの曲のあの楽観的な楽しさとか、明るさとか、昔はそんな惹かれなかったんですよ。生意気だけど、"ぬるい!"とか思って(笑)。でも40歳を越えたらポールの素晴らしさに気づきました。

 リバプールには行ったことはないけど、ロンドンには行きました。アビー・ロード・スタジオは外から見ただけですけど、なんかすごく普通のところだったんで、それほど感慨はなかったです。ニューヨークのダコタやセントラル・パークのストロベリー・フィールズも行きました。あの人がここにいたんだ、ここにいて生きていたんだ、っていう説得力、重みを感じましたね。ジョンには本当に会ってみたかった。私も親が離婚していたりして、すごく複雑な思いがあったりするんで、ジョンの気持ちはすごいシンクロするものがあります。この人の気持ちが私はわかる! みたいな(笑)。人生の答え、真理を探している若いころに、ジョンのああいう歌を聴いて、わーっと心に入ってきて、ノックアウトされて心の師になった。そういう存在のミュージシャンは他にいないですね。

取材・文/佐々木美夏

鈴木祥子
ミュージシャン


1965年8月21日生まれ。東京都大田区出身。16歳からドラムを習い始め、原田真二&クライシス、小泉今日子、ビートニクスなどのツアーに参加した後、88年「夏はどこへ行った」でシンガーソングライターとしてデビュー。そのリリカルな歌世界、伸びやかな声は多くのミュージシャンたちからも愛されている。すべての楽器をこなすマルチ・プレイヤーでもある。09年2月14日(土)神戸、21日(土)広島、28日(土)京都にてライブ開催。『SHO-CO-SONGS collection3』のリリースや、全アルバムを数日間に分けて全曲演奏するライブも予定されている。また、3月22日(日)には、単独アーティストとして初の横浜美術館グランドギャラリーでのライブも決定している。

鈴木祥子オフィシャルサイト


69.jpg

1.ジョンが生きていたらこの映画も作らせなかったでしょうけど、これがなかったら私はジョンに出会ってないんです。ビートルズの初期からよくこれだけの映像が残ってましたよね。このビデオを握り締めていつか必ずリバプールに行きたいです。ペニー・レインで、ソウルフードのおにぎりでも食べます。中身は、ストロベリージャムでは気持ち悪いので梅干で。
2.ビートルズをジャズにアレンジして弾くという譜面です。DNA研究の仕事で医者としてアメリカに行っていたときに、ヒューストンで買いました。譜面を見るのが好きなんです。私はバンドの人間なのでソロではあまりやらないんですが、いつかジャズでやってみたいですね。「for Jazz」なのに表紙がジョンなのが面白いですね。
3.「夕暮れレノン」というシングルを発売しました。多感だったころにジョン・レノンを聴いて、怒りとかどうにもならない感情がたまってしまうと、ものを壊したりするのじゃなくて、昇華させるでも土に埋めるでもいいんですけど、さよならすることをジョンの曲を聴きながら、近所の多摩川でやってたんです。それは敗北ではなくて、でもカタルシスっていうほど暴力的というかすべてを出し切るというものでもなくて、認識・受け止めることだったんですよね。何で悔しいんだろう、何でこんなに寂しいんだろう、ということを受け止めるにはジョンが必要だったんですね。

 高校のときに、少しとんがってると言いますか、すごくひねくれている時期がありました。大好きな人形や小さい頃から大切にしていたものを壊してみたり、恋愛でも相手を傷つけて失わないとそのありがたみや愛が確かめられないんです。ジョンは子どもの頃、ご両親が離婚して、お母さんにはバンジョーを教えてもらったのに一緒に住まないんですよね。私はずっと愛されてましたけど、「愛されたい」っていう言葉ってそうやって出てくるんだな、と思いました。

 友達がバンドをやろうというので、みようみまねでやっているうちにうまくいってたんです。バンド仲間がこんなビデオがあると言って見せてくれたのが映画『イマジン』。「多分今の至信に足りないもの、出したい答えをこの人が教えてくれる、そんなにいつもナイフを振り回すみたいな生き方をしなくていいんだよ、愛されたいって思っていいんじゃない?」って。映画のはじまりでジョンが「僕は愛されたい反抗者だ」というのを見て「この人誰?」って聞いたら「ジョン・レノン、ビートルズの人だよ」と言われて、「この人と深く関わっていきたい」と思ったんです。それから譜面を買ったり、音源を買って聴きはじめました。

 一時は「ウーマン」ばかり聴いていました。映画の「ウーマン」のシーンでピアノを弾いて、それからヨーコと抱き合ってキスをするシーンがものすごくあったかくてきれいです。「ウーマン」を流して、夜景を見せて、その女の子が落ちなかったらもうあきらめた方がいいというくらい、私はあの曲にすべてが込められてると思います。あんなに優しい歌はありませんから。他にも「ジェラス・ガイ」とか「ビューティフル・ボーイ」などの優しいジョンが好きです。

 大学に入るとお金を貯めて、イギリスに行きました。ヒースロー空港に着いて、「さあリバプールに行くぞ」と興奮していたら、ロンドンの小さなツアー会社の受付の人に「リバプールはまったく普通の街だよ。もし、あなたにとってビートルズが神様なら、がっかりするから行かない方がいい。あなたの中でビートルズが友達になったら普通に行ってごらん」て言われたんですよ。定員がいっぱいだったのかもしれないし、私が何泊もするつもりだったのでそういうツアーがなかったのかもしれません。代わりに普通にバッキンガム宮殿を見たり、フィッシュアンドチップスを食べたりロンドン塔を見たりしました。でも曇り空と二階建てバスは、これがイギリスなんだと思いました。ビートルズの決まった形に解決しないコード進行も、いかにもイギリスでしょう。7月か8月でしたが、持っていった半袖では寒く、青空は見ませんでした。

 在学中、インド学ゼミナールに入って、論文を書くために一ヶ月インドに旅をしたこともありました。私はヒンドゥーをテーマにして、カルカッタからあちこち回りました。医学部だったので、マザー・テレサの「死を待つ人の家」という隔離施設で、死を待つ人々とどう接していくかということも学びました。ヒンドゥーの寺院は、一日修行させてくださいと言うと入れてもらえるので、修行として掃除をしてました。お祈りの時間にはヒンドゥーのやり方で祈るんですが、結局彼らが求めていた精神世界は私には見えませんでした。まだ、私にとってビートルズは友達にはなれていないんですね。

 ビートルズって、悲しいときもうれしいときも、怒ってるときも何かを憎んでるときも全部に対応してくれますよね。ビートルズがいなかったら、違う人間になってたかもしれません。聴く人の音楽性より人間性に影響を与えるんです。どうしてでしょうね。小さい頃から育まれた思いや、あの曇り空などが才能を育てたのかもしれません。よくビートルズの奇跡は天才が二人いることだって言いますが、それだけじゃない気がします。ヨーロッパ人が作ったというか、イギリスの文化や風土と、あの4人が出会ったことによる特別なものですよね。ペニー・レインとかストロベリー・フィールズとか、架空のものだと思っていたのにちゃんとあって、日本で言うと「津軽海峡冬景色」とかそういうことですよね。すごいなあと思います。

 私にとってのビートルズは鍵です。心のドアを開けてくれた鍵。恋人であり友達でありライバルでもあり、先生。あのままだったら私は多分死んでました。自分がいていいんだ、って許してもらった気がしたんです。醜い感情も何も、かっこ悪いことって普通に出していいんだって、もがいてあたりまえなんだ、「HELP!」って歌を作っていいんだって、解放してくれたんです。鍵であり解放です。生まれる前に来日した、どうしても見られないビートルズに会いたいですね。ビートルズは自分の世界を持っていて、迷いや嘆きや悲しみを全部音に表現することに、何の躊躇もてらいもないじゃないですか。彼らのようなかっこ悪くかっこいい大人になりたいです。

取材・文/佐藤義文

木村至信
ミュージシャン、医師


癌遺伝子の研究で医学博士を取得、現役の耳鼻咽喉科・頭頚部外科の医者であり、木村至信バンドのリーダーとして活動中。08年5月23日に5枚目のシングル「夕暮れレノン」をビクターエンタテインメントより発表、タワーレコードのJ-POPシングルチャート12位にランクイン。定評あるパワフルかつ癒しのライブパフォーマンスを展開。笑いあり涙ありの全国ツアーも大好評で幕を閉じた。現在ヤマダ電機他、いくつかのコラムを担当するなどのタレント活動と平行し、ニューシングルのレコーディング、ライブなど音楽活動もますます充実。赤坂のライブレストラン「AKASAKA NOTE」のおかみさんという一面も持ち、各方面のミュージシャンとの交流を大事にしている。

http://www.kimushino.net/


68.jpg

1.「ロンドンに住んでいた頃、いちばんレコーディングした回数が多かったのは、ジョージ・マーティンのAIRスタジオです。一度、僕がいるスタジオに、突然ポールがベースを持って『弾かせろ』って入ってきました。そういうことは他にも何度かあったらしいです。自分のことは誰でも知ってるから、ベースを持っていけば弾かせてくれると思ってたんでしょう(笑)。気さくな人でしたね。リンダもすごくいい人でした。日本で彼女の写真集を買おうと思って、お金を振り込んだのに、いくら待っても来なかった話を本人にしたんです。そうしたら次の日に持ってきてくれて、すごい謝ってくれました(笑)。彼らが『セイ・セイ・セイ』を作っていたときで、マイケル・ジャクソンもいたんですけど、僕ら東洋人を怖がって、トイレに隠れちゃったんです。
いちばんの自慢は、2000年にテレビの企画で、アップル・ビルの屋上で倉本美津留さんと『ゲット・バック』を演奏したこと。アンプは持ち込めなくて、アコースティックだったんですけど、興奮しました。あのビルは今、建築関係の事務所で、許可をとるのが大変だったそうです。屋上は意外と狭いんですよ。落ちそうに思うぐらいに。『レット・イット・ビー』の映画撮影は、非常に危険だったでしょうね」

 1964年、小学校6年生の頃……まわりの誰もビートルズを知らないような頃から好きだったんです。その後ももちろんずっと追いかけましたが、僕は天邪鬼だったので、新しくてかっこいいものをどんどん見つけていきました。ローリング・ストーンズ、ヤードバーズ、ジミ・ヘンドリックス……。わずか数年間ですが、激動の時代でしたね。生き方やファッションの先端はつねにミュージシャン、特にビートルズでした。

 スタンダード・ポップスが大好きなポールの音楽は、聴いて楽しくなったり、元気が出たりする。一方ジョンは、プレスリーなどのロカビリーから入ってブルースを知って、人間は死に向かって生きてるもので、暗い面を外しちゃいけないという思いがあった。だから、人に言えないような精神的な部分を音で表現したり、ヨーコさんと現代音楽をやったりした。重要なのは、ジョージがチェット・アトキンス的なカントリー&ウェスタンの要素を加えたこと。それらがものすごくいい形でブレンドされて、人間の脳と耳と心に心地いい周波数になったんじゃないですかね。

 今の音楽で使われる技術、発想、音作りの90%ぐらいはビートルズがやったことです。本当に、やり尽くしてますよ。超えられないですね。もともとあった音楽の要素をモダンに加工して、僕らが「これがポップスだ」と思ってる概念を完成させた。今では商品になってる技術も、彼らのエンジニアが手作りしたものです。彼らの音色は今でも追究してます。ジョージ・マーティンさんに何度もお会いして、どう録音したか全部教えてもらいましたけど、機材の目的を超えた使い方をしてたんですね。しかも機材は、今の技術では作れないほど上質です。みんな勘違いしてますけど、技術って昔から全然進歩してないですから。加えて社会的な問題で、ものすごく優秀なパーツを作ってた町工場が、今の経済状況では経営していけないという側面もある。偶然ですが、ビートルズが録音に使ったアナログの機材は、人間の耳にとってベストでした。今、機材が便利になったと言うけど、音はどんどん悪くなってます。便利とは、その倍、何かを失うことなんです。

 大事なのは、失ったものが何かわかるかどうか。僕ら、今どきとても面倒なことをやってるわけですよ。楽器からアンプに行くシールド1本でも、何時間もかけて吟味する。音がCD化の過程で劣化するのを、極力阻止しなければいけない。音楽を作ることは真剣で崇高なんです。だから昔のアビイ・ロードのエンジニアは全員白衣を着てたし、アンプのボリュームの接点は全部純金ですからね。人が奏でた音楽をありがたくいただいて、最良の状態で録音する。結局、人であり、愛情の深さです。

 ビートルズを超える存在が出てこないのは、地球の、もっと言えば宇宙のエネルギーが下降してるからじゃないですか。あの4人は奇跡的な出会いです。世界中からオーディションしたんじゃなく、近所に住んでたんですからね。モンキーズを筆頭に、アメリカで大金を払って、才能がある人を集めてビートルズに対抗しようとしたけど、40年以上経ってもできない。それは、生き物に注がれるエネルギーが減ってきてるからです。産業化社会のなかでただ作られた商品に、人間の暮らしにいいものなんかない。そういう無駄なものの親玉が戦争です。最良の技術や金属がそんなことに使われている。失われたものの大きさに気づいたときには手遅れです。ジョンがいちばん訴えたかったのは、そこじゃないですか。ビートルズのすごさは、音楽ももちろんだけど、生きる原点を必ず思い出させてくれるところです。今をちゃんと生きていれば、未来はそれにくっついてくる。「トゥモロー・ネバー・ノウズ」、明日は誰も知らない。これがすべてだと思う。今ジョンが生きてたら、山にこもって炭でも焼いてたんじゃないですか。

取材・文/鳥居一希

土屋昌巳
ミュージシャン、音楽プロデューサー


1952年8月22日生。静岡県出身。りりィ、大橋純子らのバック・バンドを経て、79年に一風堂を結成(84年解散)。並行してソロ活動、JAPANのワールドツアー参加、映画出演など多方面で活躍。プロデューサーとしても、THE MODS、小比類巻かほる、小泉今日子、THE BLANKEY JET CITY、GLAYをはじめ、多数のアーティストを手がけている。2008年12月3日に加藤和彦、小原礼、屋敷豪太、ANZAと結成したVITAMIN-Q feauturing ANZAのファースト・アルバム『VITAMIN-Q』をリリース。09年1月、2月にはライブも予定されている。

公認ファンサイト M's Reflexion
http://www.ne.jp/asahi/masami/london/


67.jpg

1.「ピンバッジは友達の海外土産です。古着屋で買ったらしいんですけど、昨日電話してどこの国だか訊いたら"忘れた"って(笑)」
2.「マグカップももらいものです。キリンジをやる前にレコードの卸でバイトしてたんですよ。輸入して各地の中古屋に送る倉庫で働いてた。そのときに販促グッズかなんかで入荷したもので、"もらっていいすか?"って(笑)。ペン立てにしたり本棚に飾ったり、ずっと持ってます」

 兄が聴いてたので、小さい頃から自然に耳にしていました。居間にステレオが置いてあって、そこでよくかかってたので、自分が音楽を好きだと意識する前から知ってたというか。そんな風だったから最初は特別入れこまなかったけど、高校を卒業するくらいになって、自分でオリジナル曲を書いていこう、バンドをやろう、って思ったときに、どういう音楽がいいかなぁ、っていろいろ聴き始めたんですね。そういえば家のレコード棚にビートルズもいっぱいあるなぁ、ってもう1回聴きなおしたんですよ。はまっていったのはそこからです。初期から後期まで聴くぶんにはどの時期もそれぞれ好きでしたけど、実際に自分たちで演奏してたのは初期っぽい感じのものが多かったかもしれないですね。バンド・サウンドだから、オリジナルでそれ風なことをやってもなんとなく印象が近くなりやすい。「ア・ハード・デイズ・ナイト」の感じとか、『フォー・セール』の頃の感じとか。

 曲作りで参考になったのはポールのソロですね。『タッグ・オブ・ウォー』はよく聴いたし、「ヒア・トゥデイ」「ジャンク」の路線が好き。あのへんのクラシックっぽい感じをよくコピーしてました。コピーしがいがあるというか、シンプルな進行なんだけどすごくきれい。ポールって基本的にはロックンローラーだと思うんですよ。でも「マイ・ラヴ」みたいな曲を書くことができてしまうっていうだけで、すごい期待されちゃうっていうか、そっちを求められてしまう感じはしますよね。でも基本的にはあまり深く考えない、パーティー音楽としてのロックンロールが普通に好きな人なんだろうなぁ、と思って見ています。もちろんジョンの曲も好きだけど、日本では"「イマジン」の人"になりすぎてて。あまりそうしないほうがいいのに、っていうのはありますね。

 ビートルズは、4人のキャラの立ち方がすごい。そこが格好いい。バッドフィンガーやパイロットとかとは違う。4人とも格好いい。すごいめぐりあわせですよね。難しいことをやってないのにすごく音楽的なところも素晴らしい。「マーサ・マイ・ディア」のサビとか全然古くならないですもん。「ブラックバード」もどうやってできたんだろう、って思います。ギターを爪弾きながら、コードを押さえて作ったっていうよりは、あのプレイ・スタイルで遊んでるうちに出来たんじゃないか、あの弾き方を覚えてすぐ作っちゃったんじゃないか、って勝手に思ってるんですけど。出来た瞬間はどんな気分だったのかなぁ。会えたら訊いてみたい気もするけど、あんまり真面目に教えてくれないと思います(笑)。本人に会いたいとかってあんまりないんですよ。会わないほうがいいような気もする。

 兄と同じく、イギリスに行ったことはないですね。自分から海外旅行をしようとは思わないタイプなんで。キャバーンとかに今行ったら案外しらけるんじゃないかとも思うし、アビー・ロードも白線の感じが昔と変わっちゃってるし。フレディ・マーキュリーが死んだときにちょっと行こうかなとは思いましたけど(笑)。僕もまだ20歳くらいだったんで、花でも手向けようかなと思って、ファンクラブにお墓の場所を問い合わせる手紙を送ったんですよ。でも入会案内の紙が来ただけでした(笑)。


取材・文/佐々木美夏

堀込泰行
ミュージシャン


1972年5月2日生まれ。埼玉県出身。98年に兄・高樹とともにキリンジとしてデビュー。その洗練された楽曲とハーモニーは多くのミュージシャンからもリスペクトされている。デビュー10周年を迎えた08年12月10日には新曲「星座を睫毛に引っかけて」を含む2枚組ベスト・アルバム『KIRINJI 1998-2008 10th Anniversary Celebration』(COCP-35308~9)をリリース。「順番に聴くと、歌がどんどんうまくなってる。最初の頃は自分たちが作る曲にスキルが追いついてなくて頭でっかちな感じもするけど、だんだん自然になってきてるところが聴きどころかもしれない。ビートルズは最初からそれができていたからすごいですよね。デビュー前からさんざんライブをやってたし、偉大なプロデューサーがついてたっていうのも大きいと思いますけど」

オフィシャルサイト
http://www.naturalize.jp/


66.jpg

1.ジョンの家族写真は、僕が78年に生まれた頃に日本をうろうろしていたことがうれしいんです。ジョンが自分と同じ時代を生きていた、という感じが。ビートルズを知るようになってから、物心つくまで考えなかった過去というものが、人間40年でこんなことができるのかとか、このくらいの時間で世の中は流れるのかという風にビートルズがコンパスやものさしとしてできあがってきました。
2.『ラヴ』が発売されるとき、世界に先駆けて5.1chのビートルズを聴こうというイベントが旧キャピトル東急ホテルであったんですよ。ビートルズが記者会見をやったホテルで、ジョージ・マーティンの息子が来て、音楽を聴くなんて初めての体験でした。ビートルズが記者会見をした真珠の間で、ジャイルズ・マーティンのレコーディングの裏話を聞いて、その後5.1chがセットしてある別の部屋に行きました。ビートルズのパネルに囲まれて風船が浮かんでいるサイケな部屋で、じゅうたんの上で座ったり寝転んだり自由に聴いてお開きだったんです。ジャケットを真珠の間に忘れたのに気づいて取りに戻ったら、ホテルの人に「ありましたよ。よかったら、記念撮影どうですか」と撮ってもらったのがこれです。すぐ後で建て直しのためにホテルは営業をやめてしまいましたが、ビートルズ体験の浅い僕にとってはとてもエキサイティングな経験です。
3.10トラック目は昔、卒業制作のときに作った作品を元にしています。故郷が寺町なので、自分の原体験を詩にしたときに、頭に鐘の音を入れたんですよ。このCDのために再度録音したときにも鐘の音は入れました。その後、はじめて『ジョンの魂』を聴いたときに、鐘が鳴っているのでびっくりしました。「母は苦情を言いました」ははじめ24、5歳の男が人前で母親についての詩を読むことに抵抗があったんです。そのときに「マザー」を聴いて、「そうか、やってもいいんだ」と背中をおしてもらった感じです。武道館のとなりの科学館というところで詩のボクシングの決勝があったんです。MDに「マザー」を入れて、武道館のとなりのベンチで聴こうと思ったら電池が切れて聴けないんです。ジョンに「お前がやるんだ」と啓示を受けた気がして、「母は苦情を言いました」で優勝したんです。

 テレビやラジオで流れていたビートルズの曲を、オールディーズというか、昔の民謡みたいに思っていたんです。それが『青盤』にはいっぱい入っていて、全部ビートルズだとわかったらすごいと思って、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」から徐々にはまっていきました。デザインの仕事をはじめた当時、仕事がなくて時間だけはあって、古本を店の隅にちょこっと置いてるレコード屋で、一冊20円でビートルズの詩集の上下巻を売っているのを見つけました。安いからそれを買ってひまつぶしに歌詞を読み始めたんです。そのときは訳だけで原文がなかったので、内容よりも表紙の初期と後期のメンバーの写真を見て、これが同じ人たちかと思うほど顔が違うのに驚きました。

 ジョン・レノンには好きな言葉がたくさんあって、歌詞ももちろんですが、対になるもの、コンビ論になるようなものもあります。解散後の「ポールの悪口を言ってもいいのは俺だけだ。他のやつが言うのは許さない。兄弟げんかみたいなものだから」というのが、僕はずっと二人で仕事をしてきたので、すごく好きです。ジョン・レノンじゃなくてもそういうことを言う人はいて、そういう人間は信頼できるんです。あと、「ゲッティング・ベター」でポールが「これからよくなる」って言ってるのに「これ以上悪くなりようがない」みたいなことをジョンが加えていて、それがあることでただの明るい励ましの言葉じゃなくなるんです。そういう発想って違う人間が付け加えないと出てこないんですよ。レノン⇔マッカートニーのキャッチボールが顕著に出てるフレーズですよね。

 装飾のない、弾き語りで家で録った様な荒削りなデモテイクが最高だと思うことがビートルズや他の人でも多々あって、ビートルズで一番好きなアルバムは『アンソロジー2』なんです。往年のファンからすれば、そんなものは最近出たものだということになるかもしれないけど、そんな選択でも、自由なものとして許してくれるのがビートルズじゃないかと思います。コアなファンが集まっている場所では恥ずかしいけど、それでも『アンソロジー2』が好きですと声を大にして言いたい。だってしょうがない、一番聴いてしまうんですから。クラウス・フォアマンが『アンソロジー』のジャケットも描いてて、『リボルバー』と違ってカラーのコラージュで現代風のジャケットになってるじゃないですか。アストリットとスチュアート・サトクリフのことがあってもビートルズと関わり続けて、『アンソロジー』でも関わってるのがいいですね。

 ビートルズの足跡を訪ねたいという気持ちはあるんですけど、行きたい場所というより、桃源郷みたいな憧れの場所だと思ってるんです。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」を聴くと、ジョンの経験を追想しながらも自分の少年時代を思い出します。ジョン・レノンは孤児院ストロベリー・フィールドを歌にして、僕の場合は山梨のぶどう畑にかこまれているのが生まれた家なんですよ。イギリスに行けるとしたらアビー・ロード・スタジオで、趣味じゃなくて何らかの必然性を持って、楽器を弾いたり音を録ってみたい気持ちはあります。

 僕がビートルズから受けた一番大きな影響は、レノン=マッカートニーのけんかとか人間関係、関わり方ですね。ジョンとポールの関係のように僕にも相方がいて、正反対の性格なんですよ。例えば、自分が何か詩を書こうと思って行き詰まっているとき、相方の絵を見ることで書けることがあるんです。そのキャッチボールは不思議で、他の絵じゃダメなんですよ。どんな人に会っても二人は正反対ですねと言われて、不安もあるんですけど、ジョンとポールを見てると、正反対であるからこそいいものがあるんだと信じられるんです。

 僕にとってビートルズとは、答えじゃなくて、ヒントですね。詩を書いたり歌を歌ったりデザインをしたりという表現以外の部分でもいろいろ参考になります。「何ものにも縛られないこと」もヒントになるし、でもその言葉にすら縛られずに何かに縛られることも大事だというときもあるじゃないですか。サイケデリックとかスタイルにこだわるとか。そういう意味で何でも最終的にはヒントになるんです。


取材・文/佐藤義文

本田まさゆき
詩人、デザイナー


1978年2月20生まれ。山梨県出身。2003年、第3回詩のボクシング全国大会優勝。同年、ソニーミュージックジャパンインターナショナルより朗読CD「母は苦情を言いました」をリリース。詩人としての活動のほかに「制作室デザインコンビ(http://design-combi.com/)」ではデザイン、イラストレーションなどを手掛けている。

ソニーミュージック 本田まさゆきオフィシャルサイト
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/SR/MasayukiHonda/


65.jpg

1.「『ビートルズ・バラード・ベスト20』という編集盤です。最近中古屋でもあまり見ない。ジャケットがいいですよね。フランス編集盤らしいんですけど、ビートルズを聴くようになって3枚目くらいに買ったのかな。単純に有名な曲が多く入ってるからというだけなんですけど。赤盤青盤は2枚組で高かったですからねぇ。解説が手抜きだし、曲のクレジットが全然書いてない。でもテイク違いが多いのに後から気づいて、得したなと。歌詞カードに染みがついてるんですけど、多分ヤクルトだと思います(笑)」

 ビートルズはよくラジオで流れていたから小さい頃から自然と聴いてたとは思いますけど、『悪霊島』って映画で使われていた「レット・イット・ビー」がいい曲だなぁと思って、"この曲何?"って父親に訊いたら"ビートルズだよ"って。そこから意識して聴き始めました。確か6年生だったと思うけど、『リール・ミュージック』っていうビートルズの映画の主題歌や挿入歌に焦点を当てた編集盤があって、それを買ったのが最初ですね。ブックレットも豪華だったから読みながら聴いてました。その次は『ウィズ・ザ・ビートルズ』。ジャケットが有名な写真だったから買ったら、"あれ!?"って思って。内容が地味っていうか、"なんでこれをみんないいって言うんだろう?"って不思議に思っていたら、後からわかったんだけど、僕が欲しかった曲が入っていたのはアメリカ盤のほうだったんですね。でも同じジャケットのものを2枚買うのは悔しい気がして(笑)、財力がない中学生はあきらめました。その後もアルバム全部は揃えなかったんじゃないかなぁ。揃えられないんですよ、何事も(笑)。ビーチ・ボーイズも持ってない。全部持ってるのはスティーリー・ダンくらいかな。「ペニー・レイン」や「ストロベリー・フィールズ~」が入ってる編集盤を買おう買おうと思っていて、でもそれはオリジナル盤を先に買ってからじゃないといけないんじゃないか、とかそういう変な生真面目さもあったり(笑)。

 いちばんよく聴きこんだのは『アビイ・ロード』ですね。このアルバムはやけに音がすごい現代的。初期のものとかあんなにぐしゃっとしてるのにね。それがすごい不思議だった。現代的なレコーディングのシステムが確立されたのがきっと69年くらいだったんでしょうね。いちばん好きなのは「サムシング」かな。このアルバム以外では「ノーウエア・マン」はコーラスの感じがすごく好き。でも「イエスタデイ」とかはピンと来なかったですね。そんなにいいかなぁ?って。

 ソロではやっぱりポール。ちょっと前はジョージだったんですけど(笑)。『タッグ・オブ・ウォー』はすごく好きです。「テイク・イット・アウェイ」のブラスの感じとかいいですね。ここ数年は『スピード・オブ・サウンド』や『ヴィーナス・アンド・マース』もよく聴きます。ポールって長嶋(茂雄)みたいですよね(笑)。こう来たらこう打つ、みたいな感覚的な打撃の説明をよくするじゃないですか、長嶋って。でもイマイチ理解できない。相当天然なんでしょうね(笑)。ポールって結構地味なメロディだったりするんですけど、聴いてると"あぁなるほど"って納得する瞬間がたくさんある。でもメロディの良さって説明しにくいですよね。ビートルズは声で他のグループより抜き出てますね。あれだけいいボーカリストがふたりもいるバンドは他にない。

 イギリスに行ったことはないんです。出不精で、旅行とかあまりしないタイプなんで。あと身体がデカいから飛行機が苦痛(笑)。聖地巡礼的な考え方やコレクター気質がなくて、音源だけあればいい、そういうタイプなんですよ。でもアビー・ロード・スタジオは行ってみたい。これはアビー・ロードで使ってたやつを作り直したんだよ、っていう機材とかが今結構出てるんですけど、そういうのはアビー・ロードだっていう理由だけで欲しくなったりしますね。


取材・文/佐々木美夏

堀込高樹
ミュ-ジシャン


1969年6月1日生まれ。埼玉県出身。98年に弟・泰行とともにキリンジとしてデビュー。その洗練された楽曲とハーモニーは多くのミュージシャンからもリスペクトされている。デビュー10周年を迎えた08年12月10日には新曲「星座を睫毛に引っ掛けて」を含む2枚組ベスト・アルバム『KIRINJI 1998-2008 10th Anniversary Celebration』(COCP-35308~9)をリリース。「聴きどころはとりあえず新曲ですね。できたばかりでいちばん気に入ってる。オールディーズ風で、ジャズっぽいハーモニーがあったりして、でもフィル・スペクターっぽくしなかったのが自分たちらしいかなと」
オフィシャルサイト


64.jpg

1.ロバート・ゼメキスによる初監督映画『抱きしめたい』(1978年製作)の輸入DVD。「ビートルズが初めてアメリカにやって来たときに、6人のティーンエイジャーが巻き起こす騒動を描いたフィクションで、4人に会いたくてホテルのボーイに化ける若者や、ビートルズのせいでそれまでラジオで頻繁にかかってたザ・フォー・シーズンズがかからなくなったと怒る若者なんかが出てきます。ビートルズの『エド・サリヴァン・ショー』出演のシーンでは、スタジオのモニターに本物の映像が映る一方で、舞台にはそれと同じ動きをする役者がいたりして、ゼメキスらしい細かいネタが仕込んであります。僕はビートルズを題材として扱ったこういう周辺的な映画とか音楽とかが好き。ビートルズには二次的な作品を触発する強い力があって、しかも切り口を無限に持ってるから、それがどう表現されるのかを鑑賞するのが楽しいんです。そういう作品を通じてもういちどビートルズに立ち返ったり、ビートルズらしさがわかったり、魅力がよりクリアに見えてきたりします。日本でもぜひDVD化してほしいな」

 10歳のときにビートルズの来日公演をテレビで観ました。その前後に、GSブームの延長線で彼らのヒット曲をラジオで聴いたり、テレビ番組の『ザ・ヒット・パレード』で日本人の歌手がカバーするのを観てました。ハマったのが、「ハロー・グッドバイ」。コーラスの♪Hello good-bye, hello good-bye♪が普通のドレミファソラシドなんだけど、学校で習った退屈なドレミがこんなにカッコよく歌えるのかって感動しました。

 ビートルズは音楽や可能性を外に広げる精力的な活動をしてたので、その柔軟な考え方にはかなり影響を受けました。たとえば音楽の切り口の作り方、興味の持ち方、自分が受けた影響をどう昇華させるのか、好奇心をどう実現させるのかという面ですね。必ずしもバンドとしてやらなくていいんだっていう、「イエスタデイ」あたりから始まった自由も、『ホワイト・アルバム』で爆発したんだと思います。このアルバムは現代音楽的アプローチあり、フォーク、伝統音楽、ボードビルっぽいもの、ハリウッド的なものありで、絶対にひとつのジャンルには収まらない幅広さや柔軟性を持ってます。僕が「ロックが好きだ」というとき、それはビートルズが『ホワイト・アルバム』で示してくれたその幅を込めてのロックなんです。

 僕はアコースティック・ギタリストとしてのポール・マッカートニーが大好きで、ポールのギターで音楽を学んだといってもいいくらい。1本のギターで、ベース・ラインと、あとふたつぐらいの音が交互に鳴ってるなかにメロディが奏でられ、アンサンブルが完結してるんです。決して無駄な音は使わずに、ものすごくふくよかですばらしいコードができあがっちゃう。そんじょそこらの人に真似できる芸当ではありません。ポールも勘でやってるんだと思うけど、それを選び取る強さを感じますね。弾き方にしても、たとえば「ブラックバード」はカーター・ファミリー・ピッキングというカッティングなんですよ。決してスリー・フィンガーじゃない。そのかっこよさがポール!

 コードのつけ方にも特徴がある。ポールの曲ではメロディがコードからちょっと外れたテンション・コードに行くことが多いんです。「ハロー・グッドバイ」のアタマでいうと、コードはFだけど、メロディはそこから外れたシックス。メロディをテンションで歌いつつ、ギターではテンションなんかかまわずにストレートなコードだけを弾く。そこがポール! その潔さこそがロックンロール!

 ロンドンにはちょくちょく行きます。2007年9月にはロイヤル・フェスティバル・ホールでブライアン・ウィルソンのライブを観ましたが、『サージェント・ペパー』発表40周年だということで、ブライアンが「シーズ・リーヴィング・ホーム」をテンポもアレンジも変えて歌いました。彼がちょうどアルバム『スマイル』を作ってたときに、ポールがスタジオに遊びに来て「新曲だよ」って聴かせてくれたのがこの曲だったという話をして。おもしろかったのは、この曲を演奏すると言ったのに、始まったのは「ゲッティング・ベター」のイントロだったんです。そのテンポのまま「シーズ・リーヴィング・ホーム」に突入して、途中でみんなが知ってるあのワルツにガラッと変わるんだけど、もしかしたら、ポールは最初そういうアレンジでブライアンに聴かせたのかもしれないなんて妄想がふくらみましたね。2004年のブライアンのライブでは、シートに座ってふと後ろを見たら、客席にポール・マッカートニーを発見。前にブライアン、後ろにポール! うちの奥さんがポールの写真を撮ろうとしたら、視界を遮るジイさんが……。それがジョージ・マーティンだったというとんでもないことがありました(笑)。

取材・文/吉野由樹 写真/小倉直子

萩原健太
音楽評論家


1956年生まれ。出版社勤務を経て、81年からフリーの音楽評論家、音楽プロデューサーとして、またみずからもギタリストとして音楽活動を行なうなど多方面で活躍。『ポップス・イン・ジャパン』『ロックの歴史 ロックンロールの時代』など著書も多数。2003年には黒沢健一とアコースティック・ユニット健'zを結成。アルバム『Ken'z』でポール・マッカートニーの「ヴァニラ・スカイ」「エヴリナイト」「故郷のこころ」「ソー・バッド」「ジャンク」、ウイングスの「ベイビーズ・リクエスト」、『Ken'z with Friends』ではポールの「カリコ・スカイズ」をカバーしている。
Kenta's Nothing But Pop!


63.jpg

1.「俺はビートルズ・マニアとして、オークションは大嫌いなの。でも10年くらい前にNYとロンドンと東京をつないだ大きいオークションがあって、知り合いからカタログをもらって見たら、これが出てて。サインの言葉が格好いい。Thanks for your blood。すげぇ感動して、これ欲しい! もう1枚、ジョンの『トゥー・ヴァージンズ』のサイン入りとのセット。でも取材も来るらしいから目立つのが恥ずかしくて、知り合いにある金額を提示して、"ここまでだったら出すから頼む"。そしたらNYのコレクターと一騎打ちになって、そいつは引けなくなったらしくて、どんどん乗っけていって(笑)。で、"落としました!"って連絡が来たから"ありがとう!"って言ったら"…すみません、引くに引けずに予算の倍になっちゃいました、差額は俺が出します"。気持ちはわかるからもちろん俺が出した。だからカミさんには金額をいまだに言ってない(笑)。額装は自分でした。1回だけ針を落として、"ありがとうございます"。ジョンが手にしたものが家にあるっていう、それだけでもうお腹いっぱい」
2.落札した『ホワイト・アルバム』(写真1)にあるジョンのサインの部分。

 小学校3年か4年あたりだと思うんだけど、アパートの上の部屋の兄ちゃんにたまに勉強をみてもらってた。その兄ちゃんが引っ越すときに『ホワイト・アルバム』をくれて。でも聴いてもさっぱりわからなかった(笑)。「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」はいい曲だと思ったんだけど、それ以外はもうそのまましばらく封印。で、中学に入って兄貴がいる友達の影響とかで普通に赤盤・青盤を聴いて、"そういえばうちにビートルズあったなぁ"って。引っ張り出して改めて聴いて、そこからはもう…(笑)。そんな始まり方だったからか、本当に俺、『ホワイト・アルバム』マニアなの。今聴いても、俺にとってのロックはあのアルバムに全部入ってる気がする。高校に入ってチェッカーズのメンバーと出会って、彼らはキャロルやクールスが好きだったんだけど、実は俺はビートルズ。その後はツェッペリンとかのハードロック系だった。でもビートルズももともとロックンロールだったから、キャロルとかのロックンロールも格好いいじゃん、って思えた。俺も音楽マニアだから今いろんなのを聴いてるけど、やっぱり常にビートルズが隣にいる。でもバンドでビートルズのカバーはやったことがない。おこがましい。それくらい特別な存在。

 もしビートルズがいなかったらチェッカーズは続けられていなかったと思う。アマチュアの頃はリーゼントで男のファンのほうが多いバンドだったのに、デビューしたらチェックの服着てあんな髪型させられて、ってときにやっぱ悩んだわけ。でもビートルズだってそうだったじゃん。リバプールやハンブルグでめちゃくちゃやってたバンドが、やりたいことをやるためにはまず売れなきゃいけないから、ってスーツ着せられてお行儀よくするよう言われて、カバーがいっぱい入ってるアルバムから徐々にオリジナルになっていく。チェッカーズもそうしよう、まず売れないと何もできない。そう思えたのは、間違いなくビートルズがあったから。他のメンバーはビートルズはそこそこ知ってるくらいなんだけど、俺がこの話をしたらみんなに響いたね。そうだよな、って。

 ジョンのことは、勝手ながら親戚のお兄ちゃんみたいに思ってる。うちも母子家庭だったから環境が似てたし。あの人の自由奔放な生き方、あり方、デタラメさが好き。一回会って話してみたかった。亡くなってから神格化されちゃったじゃん。それがすげぇイヤでさ(笑)。あの人間らしさが好きなんだよ。ジョンの訃報を聴いた瞬間のことは今でも覚えてる。高校3年でバイトしてて、車で蒲鉾を運んでたの。ラジオがついてて臨時ニュースが入って、"ジョン・レノンが…"。田舎の踏み切りを渡る瞬間だったんだけど、そのシーンもはっきり覚えてる。えええ~っ? どうすりゃいいんだ? って狼狽しちゃって。一生忘れられないな。今でもジョンの命日には、自分ひとりの時間を作ってジョンの曲を聴く。

 ロンドンに初めて行ったのはCUTE BEAT CLUB BAND(チェッカーズの変名バンド)の仕事。ビートルズも出たアストリア・ホールでライブをやった。その後も何回か行って、最後に行ったのもビートルズの取材。かなり前になるけどBSでビートルズ特番を三夜くらいやったとき、リバプールのメンバーの家とかも回るっていうから"ギャラなんていらないから行きたい!"って。アビー・ロード・スタジオにはチェッカーズ時代に撮影で行った。でも中には入ってない。外の壁に自分の名前と"ここに参上!"って描いたら、アルフィーの坂崎さんか誰かに"見たぞ"って言われた(笑)。

 ビートルズに関してはクールでいなきゃけない、っていつも思ってる自分がいる。今もそうだけど、線が切れたら止まらなくなるから(笑)。だからふだん友達にもビートルズの話はしない。でも本当に俺は、ビートルズがいなかったら今ここにいないってはっきり言える。一生、心の支えなんだよね。

取材・文/佐々木美夏

武内 享
ミュージシャン


1962年7月21日生まれ。福岡県田川市出身。83年チェッカーズのギタリスト兼リーダーとしてデビューし、数々のヒット曲を残す。93年に解散後はプロデューサー、プレイヤーとして小泉今日子、武田真治、ゴスペラーズ、ケミストリー等と関わり、映画や舞台の音楽監督もつとめる。現在はチェッカーズの楽器陣である大土井裕二、藤井尚之らとアブラーズというバンドで活動する一方、DJ、イベント・オーガナイザーとしてクラブ・シーンで活躍。音楽的な守備範囲はあらゆる分野に及ぶが、中でもB級昭和歌謡への造詣は奥深い。
オフィシャルサイト JAM COLONY


62.jpg

1.「子供の頃に兄貴と一緒に購読していた『ミュージック・ライフ』。楽譜集もそうだけど、ラクガキがたくさんあります(笑)。ジョンの顔に眼鏡を描いたり、自分のキーに合わせてコードを書き換えたり。ピンナップは机の前にずっと貼っていたもの。破れてるのは兄貴とのケンカの名残です。子供だから、このサインは印刷ではなく直筆だとずっと思っていました」

 両親が洋楽ファンで『サウンド・オブ・ミュージック』のサントラとかがよく家でかかっていたんですけど、ある日『ジュリー・アンドリュース・ショウ』をテレビで見てたら、彼女がビートルズ・メドレーを歌っていたんです。それが全部知ってる歌だったんですよ。だから知らないうちにビートルズとも出会ってたんだと思うんですけど、そのすぐ後に来日して、武道館公演をテレビで見て、脳天を直撃するようなショックを受けて。小学校3年だったんですけど、それからはもう一直線。今に至るまでビートルズがすべての基準です。

 初めて買ったのは「ミッシェル」や「ガール」が入ってるコンパクト盤でしたね。お小遣いが少なかったから500円で4曲入りは魅力的だった。とにかく好きになっちゃったんだから、なんでもいいから入門盤として買わなきゃダメだと思って、それを選んだんだと思います。すごく背が小さかったから、レコード屋さんのカウンターが目の高さより上にあって、背伸びしてお金を渡したことを覚えてます。そのあと「ペイパーバック・ライター」と「レイン」のシングルを買いました。ジャケットの"来日記念盤"の文字を見て、ここから自分は始まるんだ、って思ったことを今でも覚えていますね。

 解散したときは中学生で、そう何もかもうまくはいかないんだ、こんな世の中だからケンカすることもあるだろう、って当時の世情的になんとか納得しました。メンバーでいちばん好きなのはポール・マッカートニー。小3のときからずっとです。写真でも優しそうだし、僕らのこともわかってくれそうじゃないですか(笑)。子供だから最初はそういう見た目で判断しました。ソロで好きな曲は「テイク・イット・アウェイ」。スティーブ・ガッドとリンゴのツインドラムで、プロデュースはジョージ・マーティン。怒涛のように押し寄せてくる後半の展開が素晴らしい。ウイングスももちろん好きです。70年代のアメリカン・ロックやバブルガム・ポップスを全部消化して、ビートルズではできなかったことをやっていた。浮ついて見える人もいただろうけど、格好よかった。でも80年のあの来日中止のときは、「まさかポールが日本でライブなんてやってくれるわけがない」っていう予感めいたものがあってチケットを買ってなかったんですよ。不思議ですね。

 ジョンが亡くなったことを知ったのは、忘れもしない小田急線の千歳船橋駅近くの中華料理屋でした。ラジオがついてて、内田裕也さんが悲痛な声で喋っていて。僕はまだアマチュアだったんだけど、その日はサザンの初めての武道館公演の前日で、リハスタに差し入れを持っていったんですね。中に入ったら全員どよ~ん。もう真っ暗。確か次の日はメニューを変えて「オー・マイ・ラブ」かなにかをやってました。僕も全然現実のこととしてとらえられなかったんですけど、新曲はもう聴けないんだっていうことはわかって、それがつらかった。『ダブル・ファンタジー』は途中のような気がしていたから、その次が楽しみだったんですよね。90年のポールのライブは、ずっと「ありがとう、ありがとう」って思いながら見てました。そんな風に思いながら見たライブはそれまでなかったです。素晴らしかった。その後も毎回行ってます。

 でも残念ながら、ロンドンには行ったことがないんです。たまたま機会がなかった。楽しみはあとにとっておきたいですしね。いつかもし行くことができたら、もちろんビートルズの名所めぐりはしたいです。アビー・ロードの横断歩道も絶対に渡ります。多分、ものすごく興奮するでしょうね。

取材・文/佐々木美夏

斎藤 誠
ミュージシャン


1958年1月3日生まれ。東京都目黒区出身。青山学院大学ではサザンオールスターズを輩出した伝説の音楽サークル・ベターデイズに在籍。在学中から楽曲提供を始める。83年アルバム『LA-LA-LU』でシンガーソングライターとしてデビュー。ギタリスト、ボーカリスト、プロデューサーとして活躍を続け、2008年でデビュー25周年。サザンのサポートだけではなく、桑田佳祐のソロ活動にも欠かせない存在となっている。
斎藤 誠オフィシャルサイト


61.jpg

1.「子供の頃に買い集めたシングルと4曲入りコンパクト盤。お金がなくてアルバムが買えないから、シングルと、アルバムのおいしいところをかいつまんだコンパクト盤を、兄弟でお金を出し合ってひたすら買ってた」

 ビートルズの嗜好性は年齢に左右されるよね。俺は今51歳で、小学生のときに兄貴の影響もあってリアルタイムでビートルズと出会った。テレビで来日公演を放送したときは、オープンリールのデッキで録音したり、画面に映る彼らを写真で撮ったり。当時8歳。だから俺にとってはポップスというエサを与えてくれた親みたいな存在。でも当時はジョンとポールの顔の区別がつかなかった(笑)。欧米人がアジア人を見ても区別がつかないっていうのと同じように、俺には全部外人。みんな長髪だったしユニフォームを着てたからね。

 最初に買ったシングルは「シー・ラヴズ・ユー」。確か330円。次は「アイ・フィール・ファイン」と「涙の乗車券」かな。リアルタイムで初めて買ったアルバムは『サージェント・ペパーズ~』。当時の日本盤には大抵メンバー紹介や曲解説がついてたのに、このアルバムにはなかった。だから聴いてもチンプンカンプンで、ライブ・アルバムかと思えば終わっても拍手が聴こえないし、途中でニワトリが鳴いてるし(笑)、なんだかなぁ? って感じだった。だけど評価はうなぎのぼりで、俺だけビートルズをわかってないんじゃないか? って。そりゃそうだよね、それまでずっとわかりやすいシングルばっかり聴いててアルバムを聴いたことがないわけだから、「トゥモロー・ネバー・ノウズ」も知らない。あれが俺の初芸術体験だったんじゃないかな(笑)。創り手の意図を理解する気持ちが必要っていうことでのね。確かに、彼らが俺たちの知らないところに行こうとしてるのはわかった。

 俺がビートルズから学んだことは、完成されないすごさ。余白を残せる音楽。これは彼らの意図するところじゃないかもしれないけど、ビートルズがいなかったらアンプラグドなんていう形態は出てこなかったんじゃないかな。「ストロベリー・フィールズ~」をジョンがアコギ1本で歌ったやつを初めて聴いたときえらく感動したわけ。制作途中の音かもしれないけど、完成形が完璧であれば余計に、シンプルなものが生きてくる。そういう体験をした人たちがアンプラグドに魅力を感じたんじゃないかな。聴き手に余白を残してあげることによって音楽も成長していく。俺はビートルズでは『アビー・ロード』がいちばん好きなんだけど、最後の「ハー・マジェスティ」が聴こえるまでの何秒間、ブツッていうあの終わり方。あれがすごく刺激的でまた聴きたくなる。でも人によっては"何これ?"って場合もある。よく"聴き手の先を行く"って言葉があるけど、それってなかなかできないんだよ。創り手は聴き手にわかってほしくてしょうがないんだから。わかってもらえれば売り上げも約束される、そこを否定するなんて普通は有り得ない。まぁ彼らはイヤというほど理由のわからない名声をもらってたから、それをぶち壊したかったんだろうね。"ついて来られるならついて来い"的なね。

 最近思うのは、もしビートルズを聴いてなかったらもっと違う音楽を創ってただろうなぁ、ってこと。あまりにも血になりすぎちゃって、出てくる自分のメロディはそこから逃れられないし、同じように影響を受けてきた人の音楽もとってもよくわかる。でも最近はビートルズ的ポップスの影響を受けていない人の音を聴くと、妙に新鮮に感じることもある。

 彼らの生地であるイギリスに行ったことはないんだよね。いわゆる"縁の地"にはまったく興味がない。それはアメリカも一緒で、アポロ・シアターにも行きたいと思わない。見て"へぇ~"って思うのは華厳の滝でも多分同じ(笑)。一度BS-iの取材でクリーブランドの『ロックの殿堂』に行かせてもらったとき、ビートルズの衣装を見たらやけに感動したけど、結局ストロベリー・フィールズを見たとて、アビー・ロードの横断歩道を見たとて、そこにビートルズがいないことには、俺にはあんまり意味がない気がするんだ。

取材・文/佐々木美夏

根本 要
ミュージシャン


1957年5月23日生まれ。埼玉県出身。81年スターダストレビューのボーカリスト&ギタリストとしてデビュー。「夢伝説」「今夜だけきっと」「追憶」「木蓮の涙」などのヒット曲を送り出すとともに、数々の記録を打ち立てた日本一のライブ・バンドとして不動の人気を誇る。08年11月19日にはセルフ・カバーと新曲を含む8曲入りアカペラ&コーラス・アルバム『ALWAYS』(TECI-1237 2500円)をリリース。
Stardust Revue official website


60.jpg

1.ジョンが描いたイラストをあしらったポスターが宝物。「85年にメキシコから帰ってきて、一人暮らししなきゃいけなくなってね。アパートを借りて、何か寂しいなと思ってた頃、渋谷を歩いてたときに見つけたんです。1万いくらだったな。見た瞬間に気に入って買いました。それからいろんなとこに引っ越したけど、これはいつも、家のいちばんいい場所に飾ってます」

 出会いは中学時代でしたね。暇を持て余してたとき、友だちに「レコード屋行かない?」って誘われて。店で彼が「すごいグループなんだよ」って絶賛しながら1枚のLPを出した、それが『レット・イット・ビー』。彼がお金がなくて、たまたま持ってた俺が買って……1800円でした。レコードのレの字も買ったことがないぐらい音楽に興味がなかったんだけど、強烈なインパクトでしたよ。すり切れるぐらい聴きました。

 もっと彼らのことを知りたくなった。でも、解散して何年か経ったぐらいの頃で、ビートルズのケツっぺたから入ったから、情報源って本当に少なかったんです。今みたいにビデオもないし、ニュースも入ってこない。だから一生懸命LPを買ったり、雑誌を読んだりしましたね。当時、新宿武蔵野館っていう映画館で、ビートルズ映画を月曜から木曜まで4日連続上映したんです。いちばん観たかったのは木曜上映の『レット・イット・ビー』だったけど、月曜の『ハード・デイズ・ナイト』、火曜の『ヘルプ!』、水曜の『イエロー・サブマリン』と、毎日通いました。

 そのうち聴くだけじゃ物足りなくなって、ちょっとバンドを組んだんです。まあ、ひどかったね。練習で集まったとき、ある奴がモノポリーを持ってきてね。「ビートルズはこのゲームに凝って、本物のお金を賭けてやってたんだ」って言うんですよ。みんなモノポリーに夢中になって、夏休みに毎日集まってそればっかりで、まったく練習しなかった(笑)。文化祭みたいなので演奏させてもらったけど、赤っ恥かいて、一回でやめました。俺はドラムを叩いたんです。独学でね。

 その後高校を出て就職もしたんですけど、どうしても好きだったプロレスをやりたかった。親は反対しましたね。「レスリングで国体にでも出て引っぱられたのなら納得もするけど、何もしたことない奴がいきなり何言ってんだ」って。そりゃ正解ですよ。でも、やりたいことやらないと悔いが残ると思って、後先考えなかった。俺、高校では野球部だったんだけど、レスリングが強い学校だったから、レスリング部の先生に会いに行って相談したんです。そしたら「やれ」って言われて。人生が変わりましたね。プロレス入りして、最初はつらいことがいっぱいありました。体力的にもしんどいし、人間関係も先輩ばっかりだし。打ちのめされてるときに、合宿所でふと自分の時間ができると、カセットレコーダー……それしか自分のものは持って行ってないんだけど、それでビートルズの曲を聴いたんです。唯一ホッとする時間。俺のいちばんつらい時期の応援歌でしたね。今でもラジオで偶然ビートルズがかかってたりすると、自然にボリューム上げちゃうね。

 海外修行はメキシコ。片道切符で、いつ日本に帰れるかわからないなか現地で試合をしていく生活だけど、ちょっとした楽しみがあってね。俺の住んでたところから地下鉄で3つか4つ行った駅の広場に、日本で言ったらビアガーデンみたいなのがあって、そこにビートルズのコピーバンドが出てたんです。試合がない日は毎日、日が暮れる頃に彼らの歌を聴きに行ってました。日本のコピーバンドも好きでよく観たけど、「こいつらの発音、うめえな」って思って(笑)。今どこへ行きたいって言われたら、やっぱりリバプールへ行ってみたいですね。ヨーロッパはオーストリアしか行ったことがないんです。

 デビュー戦が79年ですから、来年(2009年)で30周年です。先々のことはわからない。目の前のことをやっていくだけです。しがみつきたいとは思わないけど、自分が納得するまでやりたい。ポールもまだまだ頑張ってるしね!

取材・文/鳥居一希

越中詩郎
プロレスラー


1958年9月4日生。東京都出身。185cm、105kg。強い粘り腰のファイトスタイルから「ド演歌ファイター」などの異名を取っている。必殺技はフライング・ヒップアタック。78年に全日本プロレスに入門、84年にメキシコ、東南アジアへ遠征し、「サムライ・シロー」の名で活躍。85年に新日本プロレスに移籍、IWGPジュニアヘビー級王座、IWGPタッグ王座をそれぞれ3度獲得。92年からは木村健悟らとともに反選手会同盟(後に平成維震軍と改称)を結成し、リングに旋風を巻き起こした。2003年に新日本を退団して以降はWJ、プロレスリング・ノア、ZERO-ONE、ハッスルなどのプロレス団体のリングを渡り歩く。近年は、ケンドーコバヤシなどのお笑い芸人たちから熱いリスペクトを受けていることでも注目されている。11月20日、東京・後楽園ホールで行なわれる「ハッスル・ツアー2008」に出場予定。
侍-魂ドットコム


59.jpg

1.「幼稚園のときにレコード屋さんの兄ちゃんが"そんなに好きならあげるよ"ってくれた小冊子。72年に発行されたものですね。字が読めるようになってから、熟読して次にどのレコードを買おうかって丸をつけたりしてました。『サージェント・ペパー』のオープンリールは何年か前にロンドンの蚤の市で見つけて、2ポンドくらいで買いました。マスターから直接コピーしたものだからやっぱり音がいいんですよ。音に関するものを見つけると、ついつい買っちゃいますね」

 従兄弟がロック兄ちゃんで幼稚園に上がる前から家でレコードをかけてたんですよ。おもちゃにしてたわけじゃなくてちゃんと音楽を聴いてるらしいってことで、3歳くらいのときに親が『レット・イット・ビー』を買ってくれたんですよ。幼稚園に入ってから、従兄弟が『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』と『レット・イット・ビー』と『ギミー・シェルター』の3本立てを見に連れてってくれて、初めて大画面で動くビートルズを見て"ガ~ン!"。普通の幼稚園児がアニメのヒーローや野球選手に憧れたりする初期体験が、僕はビートルズでした。そのあと『ア・ハード・デイズ・ナイト』も買ってもらいました。レコード屋の店頭で試聴させてもらったの覚えてますもん(笑)。『ラバー・ソウル』『ヘルプ!』『ア・ハード・デイズ・ナイト』の3枚のうちのどれかがいいよって親戚のおばさんに言われて、高いものだし絶対はずしたくないから店頭で3枚全部聴いたんですよ(笑)。幼稚園児のくせに。子供にそういうものを与える環境が僕を増長させたんだと思います。

 楽器を始めたのも従兄弟の影響。ギターとアンプをもういらないからってくれたんだけど、最初は弾き方もわからないから全部同じチューニングをしたりして。『ぎんざNOW!』でポールの「夢の旅人」のPVを見て、かっこいいな~って思って弾こうとしたんだけど、コード・チェンジもわからないから自己流で研究してコードを自分で作ったり。それが小学校高学年くらい。その後「ビートルズ80」ってコードブックを買ったら間違いだらけ。こんなコードねぇよっていうのばっかり(笑)。で、弾いても音があわないから耳コピを始めたんですね。わからないときとかに自分で適当にメロディをつけたりしてると、知らないうちにオリジナル曲ができてました。

 ビートルズがなんで好きなのかなんて考えたことがないです。すごさの理由がわからないから、これだけいろんな人がビートルズを語ってるし、研究本も出てるんでしょう。こんなに資料があるのにそれでもまだみんなが追求したがる、話したがる…わからないですねぇ。自分語りなのかもしれない、その人にとっての。自分を投影できる物語がビートルズの中にあるから、自分の話、自分の見方を熱く語りたがるのかもしれない。リバプールに取材に行ったことがあるんですよ。『イエロー・サブマリン?ソングトラック?』(99年)が発売されるときに、ジョージ・マーティンや関わったエンジニアを囲んだコンベンションをリバプールでやるっていうので、ラジオの取材で記者として行ったら、プレスルームに世界中の記者が集まってる。ニューミュージカルエクスプレスとかローリングストーンとかから派遣されてくる人って顔見知り同士みたいで、当日発表があった何かの事柄について"俺はこう書くんだ!""おまえの解釈は間違ってる! 統一見解はこうだ!"とかケンカをしているんですよ(笑)。知識が豊富で、仕事としてクールであるべき人たちにそんなディベートまでさせてしまうビートルズって恐いなぁ、と(笑)。

 アビー・ロードにも行きました。そのときの取材の前にも、ジョン・ジェイコブズさんという僕の1stアルバムのエンジニアだった人がストリングス・セッションをアビー・ロードでやったときに、それを見学に。2スタに初めて入ったときは、さすがに緊張しました。ポールがここにいる映像を何十回も見たぞ、って。物語の画がそのままあるんですから。イギリスはやっぱり好きですね。何回も通ってます。ビートルズを好きにならなかったらイギリスのこともこんなに好きにならなかったかもしれない。ビートルズから派生したイギリス的なものが今、自分の生活の中で大事なものになっています。

取材・文/佐々木美夏

黒沢健一
ミュージシャン


1968年8月11日生れ。茨城県出身。19歳で作曲家デビューをし、91年に弟・秀樹、木下裕晴とL⇔Rを結成。大ヒット曲「Knockin' on your door」等、高純度のポップスで人気を博す。97年の活動休止後はソロとしてもさまざまなバンド、ユニットのメンバーとしても活躍。08年6月には初のライブアルバム『LIVE without electricity』をリリース。秀樹とともに参加しているデコレ村オールスターズでのキャラはパンダ兄弟のハンキー・パンキー。11月1日リリースのアルバム『太陽に歌って』で「上を向いて歩こう」をカバーしている。
黒沢健一オフィシャルサイト


58.jpg

1.『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の見開きジャケット内側。「ミュージシャンって、顔だと思います。4人並んでるなかで、ジョンひとりだけ顔が変だもん。ジョージはいかんせん男前だったから、悩んだんだと思う。リンゴはリンゴだし、ポールもどうかわからないところにいる感じはするけど、ジョンはロックの顔をしてた。ディランもそうだけど、行き過ぎた顔をしてるよね。ジョージも、ジョンみたいな顏してたら悩むことなく進めたのに。音楽的な才能もすごくある人だけど、ひとつだけ悩んだのは、エリック・クラプトンもそうだけど、意外とイケてた顔をしてたことでしょうね」

 ビートルズの曲は、いつも新しいものを聴いたときに、いいとは思えなかったんです。小学生の頃、東芝のステレオのテレビCMで「レット・イット・ビー」が流れてて、すごくいい曲だったから、シングル盤を買ってもらってね。そのB面が「ユー・ノウ・マイ・ネーム」。当時若くて真面目だから、すごくふざけた音楽に思えて、「何なんだ、これ」って。今聴けばとても愉快なのかも知れないけど、あのふざけた感じに小学生としてはついていけませんでした。

 その後、「イエスタデイ」とか数曲しか知らないのに、「『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』が一番いい」と聞いて買ってみました。知ってる曲が1曲もない、全体がトータルにつながったアルバムを聴いて、見開きジャケットの中のジョンの顔を見て「すっげえ変だな」と思って、「これは困ったぞ」と(笑)。

 それから中学生になってちょこちょこアルバムを買うようになって、初めて輸入盤で買ったのが『イマジン』。レコード袋に書いてあった「イマジン」の歌詞が簡単そうだったから、訳してみようと思ったんです。でも英語が苦手だったので、「天国はあると思ってみな」とか、全部肯定で訳しちゃった。なのに「うまいこと言うな」って感心したりしてね。後から全部否定の言葉と知ったけど、反対の意味でも感動してるんだから、大したもんだな自分って(笑)。これは般若心経にインスパイアされたんだな、と後から思いました。すべては空である、という。ヨーコさんが教えたのかな。

 で、ジョンがすごく気になって、次に『ジョンの魂』を普通に買えばいいのに、『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』を買っちゃった。フランク・ザッパとやった、ヨーコさんがキャーキャー言ってるライブに、また「……何だこれ!?」って、すごい悪いほうの衝撃を受けて。どうしようかと思って次に買ったのが、当時の音楽雑誌とかが妙に評価しちゃってたヨーコさんのアルバム。また間違えた。わけがわからない。今になって、自分が新作レビューとかの仕事をやるときに、すごく重要なことをしてるんだなと思います。若い子がなけなしの金で買うやつを「これは名盤である」とか書いたらね。そういうのって、大人になってから改めて聴くと、いいと思えるんですけどね。時間がかかるもんね(笑)。『平和の祈りをこめて』もわけがわかんなくて、映像を見たら、ヨーコさんが袋の中に入ってた。

 自分に一番遠いアートの世界に憧れて、アーティストがそのとき一番やりたいことをやってるレコードを買おうとしたがために失敗したんですね。でも、あのときに「イエスタデイ」とかが入ってるベスト盤なんか買ってたら、僕は今ビートルズを聴いてないと思います。やっぱり、ロックって「何だ? これは」というハードルが高いものがいいんですよ。

 イギリスには、ローリング・ストーンズのレコード・コレクターの方に「そろそろ、みうら君も海外に進出だよ」と誘われて、ボブ・ディランのレコードを買うためだけに行きました。カードを持ってなかったので、100万円、腹に巻いてね。イタリアを回ってから、ロンドンに入りました。そりゃ、アビイ・ロードも見たかったし、マダム・タッソーだって見たかったけど、その人が「そんなことに目が向くようでは、真のコレクターになれない。次のレコード屋、行くよ」って言う後ろをついて行くだけ。毎日、ホテルから中古盤屋に直行してましたよ。

取材・文/鳥居一希

みうらじゅん
イラストレーターなど


1958年京都府生まれ。武蔵野美術大学在学中に漫画家デビュー。以来、漫画家、イラストレーター、作家、ミュージシャン、ラジオパーソナリティーなどで幅広く活躍中。近著に『アウトドア般若心経』(幻冬舎)、『色即ぜねれいしょん』(光文社)などがある。
みうらじゅんofficial web site! miurajun.net


57.jpg

1.「僕はコレクションする癖がなくて、どちらかというとモノを持ちたくないほうなので、大したお宝もなく手前味噌になりますが……。96年に発売した僕のシングル「KAORI」は、「リアル・ラヴ」のエンジニアとしてクレジットされているジョン・ジェイコブズにミックスしてもらいました。仕上がりは今でも気に入っています。ビートルズと直接つながっている人と仕事できたのが嬉しかったです」

 多分中1のときに日曜のお昼くらいにやってた番組の中で三ツ矢サイダーのCMが流れて、それで「ラヴ・ミー・ドゥ」とか「プリーズ・プリーズ・ミー」を聴いたのが、ビートルズとの出会いでした。そのあと放送委員になって、給食の時間に放送室からレコードをかけてたんだけど、その棚の中に『アビイ・ロード』が1枚あったんですよ。他はクラシックとかサントラとかばかりなのに。それが第二弾の出会い。そして高校1年のときにジョンが亡くなって、追悼番組とかでラジオでビートルズがよくかかるようになって、有名な曲以外とも出会いました。どれもいい曲ばかりだっていうことに気づいて、そこから系統だてて聴くようになりましたね。

 いちばん好きな曲は「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」かな。僕はあまり音楽を分析しながら聴いたりするほうじゃないんだけど、あの曲は研究してコピーしました。でも自分のお葬式で流してほしい曲は「グッド・ナイト」かもしれない(笑)。そういえば初めてスタジオでデモテープを録った曲って、実は「ヒア・カムズ・ザ・サン」なんですよ。まだデビュー前で、バンドで行こうかソロで行こうかっていうのも決まっていない頃に、なんとなくレコーディングしてみた。でも発表はしていない。お蔵入りですね。カセットで今でも家にあると思う。聴きたいなぁ、今日帰ったら聴いてみよう(笑)。

 4人の中ではジョージが好きですね。特に『クラウド・ナイン』は本当によく聴きました。僕の1stアルバムと2ndアルバムは、間違いなく『クラウド・ナイン』のエッセンスからできている。ビートルズ的なものを最新のサウンドでやる、今そういう人は結構多いけど、当時はあまりいなかった。でもクラプトンと一緒に来日したライブには行きませんでした。自分に影響を与えた人から離れたい時期ってあるじゃないですか。ちょうどそういうときだった。

 ロンドンには仕事や他の人のライブのサポートで何回か行ったことがあります。アビイ・ロードの横断歩道も、撮影はしなかったけど(笑)、ちゃんと渡ってきました。白線が昔と違ってたのが残念でしたね。

 ビートルズは僕にとってルーツです。木の幹、木の根という意味のルーツ。すべてここから始まっていますから。

取材・文/佐々木美夏

高野 寛
ミュージシャン


1964年12月14日生。静岡出身。88年シンガーソングライターとしてデビュー。トッド・ラングレンのプロデュースによる「虹の都へ」「ベステンダンク」などのヒット曲で知られる。90年代後半からはギタリスト、プロデューサーとしても活動を始め、現在はナタリーワイズ、GANGA ZUNBA、 pupaなどさまざまなバンド・ユニットで活躍中。2008年11月19日にはソロデビュー20周年記念リリース第一弾としてシングル「LOV」をリリースする。
オフィシャルサイトHAAS


56.jpg

1-2.「ボブ・グルーエンにもらった写真集。『TOKYO POP』っていう映画に出たときにカメラマンだったボブと知り合って、それからずっと仲良くさせてもらってるんだけど、俺がジョンが好きだって言ったらこれをくれた。ボブはすごく気さくで、誰とでも仲良くなれるような人」

 ビートルズとの出会いは中学のとき。その頃は音楽にあまり興味がなくて、野球部でスポーツ少年だったんだけど、練習試合でデッドボールくらって骨折しちゃったんだよね。で、野球ができなくて家に早く帰って来るようになってたら、音楽好きな友達が来て『プリーズ・プリーズ・ミー』のアルバムを置いてった。しばらく放っておいたんだけど、暇なときにふと聴いてみたら、一発で稲妻が走ったね。最後の「ツイスト・アンド・シャウト」にたどりついた頃にはもう、“これだ!”と。そうなったらどんどん次のも聴きたくなってレコードを買い集めて、立派なビートルズ・マニアになった。ギターもすぐに持ち始めた。俺もやってみたいな、ビートルズになりたいな、って憧れちゃって。でも中学のときはバンドを組もうとしても楽器をやってる奴がいなくて、いたとしてもギターをファッションだと思ってたりして、こいつらとはやりたくないな、と。だからひとりでやった。何かの催しだったと思うんだけど、「イエスタデイ」をギター1本で歌ったら、いきなりヒーロー(笑)。次の日から下駄箱にラブレターが入ってたりして。それまで全然モテなかったから、これはいいぞ、って(笑)。それまでの自分とは別人になったみたいだった。

 ビートルズは楽しいよね。あの楽しさに洗脳された。ビートルズを聴くことが楽しかった。あとはやっぱりジョンのシャウト。こういう歌い方って気持ちよさそうだなぁ、って。だからジョンが死んだときはショックだった。一方的に自分の兄貴分みたいに思っていたからさ。大学をサボってコタツで寝てたんだよ。テレビをつけたら、ジョンが死んだって…。ちょうど新しいアルバムが出て、ツアーで日本に来るんじゃないかって噂があったからね。ショックだった。涙が出たよ。

 ロンドンに初めて行ったのは、レッド ウォリアーズの「スティル・オブ・ザ・ナイト」っていうシングルのPV撮りだったかな。でもひねくれてたから、いわゆる名所めぐりはしていない。ハイドパークとかは歩いたけど、アビーロードにも行かなかった。あの頃あそこでレコーディングしてる人はいっぱいいたから、真似してもしょうがねぇじゃん、って思ってた。アマノジャクだからね。リバプールにも行ってない。そういうことにはあまり興味がないんだよね。憧れは憧れのままでいい。

取材・文/佐々木美夏

ダイアモンド☆ユカイ
ミュージシャン


1962年3月12日生。東京都出身。86年レッドウォリアーズのボーカリストとしてデビュー。89年に解散(96年に再結成。以後不定期に活動している)。ソロでの音楽活動のかたわら、役者、テレビのバラエティ番組などでも活躍中。


オフィシャルブログ「ユカイなサムシング」



55.jpg

1.来日記念盤として発売された日本編集アルバム『ステレオ! これがビートルズ』のVol.1とVol.2(1966年)。「相当聴きましたから、かなり傷んでますけどね。当時は情報が少なかったから、写真欲しさにシングルやアルバムを買いました。このアルバムにはちょっとした写真集のようなものがついていて、そういうのがうれしかったんです」

 ビートルズを最初に見たのは小学校のとき、テレビのニュースです。1964年頃ですね。それまでのグループとは音が違いました。ベンチャーズが好きだったんですけど、ビートルズは歌があって、しかもシャウトしたり、裏声で歌ったり。ああいう歌唱法はそれまで日本にはなかった。何だかわからないけど、もう初めて見た瞬間に、尋常じゃないエネルギーを感じましたよ。

 僕がちゃんとバンドを始めたのは大学からです。ブルース・バンドっぽいのとか、いろいろ。実はその頃、キンクス、ムーヴ、トラフィックとかは演奏していたのに、ビートルズは演奏してないんです。自分のなかでは触っちゃいけない、何か聖域的なものでしたから。だからシネマ時代も、すごくブリティッシュなのに、ビートルズっぽさが前面に出た曲はほとんどない。でも、シネマにはリズムがシャッフルの曲が多いんです。何でかと思ったら、結局、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』あたりの音が自分に染みついてるんですね。

 その後、杉真理くんたちとBOXを結成しました。メンバーが各自でレコードを出してきて、ノウハウも持った上で、ビートルズっぽいサウンド……特に『ラバー・ソウル』『リボルバー』あたりの感じを突き詰めたんです。なりふり構わずね(笑)。録音段階では自分たちだけの密かなる喜びで、レコード化は考えていませんでした。

 レコーディングのときって、まずはとにかく録音しておいて「大丈夫、音質は後からどうとでも加工できるから」みたいなことをよく言うんですけど、BOXでは違いました。ビートルズの曲のフレーズには余計なものはない。どれも最初から、質の高い意味をちゃんと備えています。あの感じを出すには、録った段階ですでに音がかっこよくないとダメなんです。それも一発録りの雰囲気を活かした、あまり音数を重ねない形で。だから僕らは、録音前に何度もフレーズを試行錯誤しました。ビートルズもこんな感じでやってたのかな、なんてときどき思いながらね。

 ビートルズのメロディは、A、Bメロが序曲で、その後にいいメロディのサビがあって……という普通の構成ではなくて、最初から最後まで、どの部分から聴いても名曲。ジョンとポール、同じバンドにあんな天才がふたり、対等の立場でいたというのがすごいですね。コード進行も、従来の音楽にあるハートの部分を学び、踏まえた上で、既成概念から抜け出そう、はみ出してやろうという意識を感じます。それは彼ら自身に対してもね。どのアルバムも、前と同じことを繰り返していない。しかもシリアスにならず、必ずユーモアが感じられる。彼らの自然な思想なんでしょうね。そこがかっこいいなと思います。

 みんなに意外だと驚かれますが、イギリスには行ったことがないんです。レコーディングでアビイ・ロード・スタジオに入ってみたいですけど、ロンドンは街並自体がかっこいいから、行けるならどこでもいいですよ。

取材・文/鳥居一希

松尾清憲
ミュージシャン


1951年福岡県出身。鈴木左衛子らとシネマを結成し、1980年にレコードデビュー。84年からソロ活動を開始、並行して88年にBOX、96年にはピカデリーサーカスも結成する。2007年、アルバム『松尾清憲の肖像―ロマンの三原色』と、26年ぶりとなるシネマのアルバム『CINEMA RETURNS』を発表。2008年現在は、イラストレーターの本秀康氏とのコラボによるソングブックCDを制作進行中。

KIYONORI MATSUO OFFICIAL WEB SITE



53.jpg

1.アストリットへの100時間以上のインタビューから著された『ビートルズが愛した女―アストリット・Kの存在』(幻冬舎文庫)。アストリットはビートルズや自分自身の写真を新たに焼いてオリジナルを小松さんにプレゼントし、その写真が本に掲載された。文庫の表紙はジョージとジョンの写真。「アストリットが出会った頃のジョージはまだ、本当にかわいい子どもだったそうです。ジョンとポールに匹敵する才能は当時から示されていたそうですが、アストリットが愛したジョージの姿は『可愛い弟』で、彼の愛らしさやユーモアに私も魅了されました。この本に詳しく書きましたが、ハンブルクから強制送還されてしまう話や、ロンドンの街をスポーツカーに乗ってドライブをした話、スペインの島で島の娘に交際を申し込む話など、彼の人なつっこさがよく分かります」。左がアストリットのセルフポートレート。「彼女は2008年5月で70歳。プレゼントとカードを贈りました」

 9歳の誕生日、ヤマハの白いステレオを買ってもらいました。お年玉を握りしめて、近所の商店街のレコード店でLP盤の棚を見ていたとき、『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』のジャケットが目に飛び込んできたのです。それまで私はジョン、ポール、ジョージとリンゴを知らなかったんですが、彼らのチャームに一瞬で買うことを決めました。ステレオでそのLPを聴いて、また衝撃を受けることになります。あのギターと英語の歌声は、私をそれまで知らなかった世界へ誘って、初めて「外国」を感じさせたのでした。

 映画『バック・ビート』(93年製作)を観たときは、ビートルズというアイドルの象徴にもこんな青春時代があったのだと驚愕しました。ハンブルクでアスリット・キルヘヒアが撮ったビートルズ(ジョン、ポール、ジョージ、ピート・ベスト、スチュアート・サトクリフ)は、野心と夢を抱いた若者の姿を写し出していたんです。同時に、アスリットの20代前半のセルフポートレートを見たのですが、その美しさに圧倒されてしまったのです。

 そこで、ビートルズの青春時代と、彼らの親友スチュアートとアストリット、クラウス・フォアマンとの友情を取材したいと考えるようになったんです。主人公は、アストリットと最初に決めていました。表舞台に立つことを拒絶し続けた女性写真家の生涯にも興味があったのです。実際、アストリットに取材するまでには1年以上の時間を有しました。「私はその時代のことは誰にも話すつもりがないので、ごめんなさい」という返事が来たんですね。あきらめきれなくて、何度も手紙を書きました。何度も断られて、最後には「あなたはクレイジーよ」と言われてしまいましたが(笑)、ついに「一度会って話して気が済むなら」と、インタビューを許してくれました。

 取材を始めたのは94年の5月。ドイツ語と日本語でのインタビューは、やはり困難を極めましたね。アストリットは何度も、「北ドイツ人の私と東洋人の成美、親子ほど年が違う私たちがわかり合えるはずがない」と言いました。1週間ほどインタビューを続けた頃、何気ない質問をしていると、彼女は突然表情を変えて「やっぱり無理よ、あなたにはわからないわ。もうこの取材はなかったことにしてちょうだい」と言って帰ってしまったんです。私は呆然として一睡もしないまま朝を迎えました。ところが、翌日、彼女はまた約束の時間に現れたんです。小さな花束を持って。「ジョン・レノンが夢に出てきたの。ジョンは『ロックンローラーなんて不良だと、普通のドイツ人が誰も僕たちを受け入れてくれなかった時代、君は僕たちを受け入れ、その未来と夢を信じてくれた。なのに、なぜ日本から来た若い作家を受け入れないの?アストリットは、彼女の夢を実現することができるんだよ』と言ったのよ。私、やっぱりあなたのインタビューを最後まで受けるわ」と、言ってくれたのです。

 インタビューの場所は、ハンブルクのアルスター湖のほとりにある美しいホテルでした。アルスター湖は人工湖で、市民の憩いの場です。ビートルズのメンバーもここでボートに乗ったり、散歩したりしたとアストリットに聞いて、私も湖畔を歩きました。彼らが演奏していたライブハウスも名前や様式は変わりましたが、レーパーバーンという繁華街に残っていました。彼らが闊歩していた迷路のような街を歩いたのですが、路地の途中に門があって、簡単には入れない地区があります。娼館もあるような地区です。ビートルズのメンバーは門の前に立っているボディガードたちととても親しくなって、どんな場所も自由自在に歩けたそうです。

 リバプールにあるスチュアートのお墓にもお参りに行きましたが、質素な市営の墓地でした。ツアーバスに乗ってジョンの家を見にいったときには、風邪で熱がありました。食欲がなくて、ビニール袋に入ったキャラメルを食べようと袋の口を引っ張ったら、その袋がバンと割れて、キャラメルがバスの通路にばら蒔かれてしまったんですね。すると、ガイドさんが悲鳴を上げたんです。ガイドさんから「今の場所は、ジョンのお母さんが交通事故で亡くなった所ですよ」と言われて、ちょっと背筋が寒くなりました。

取材・文/淡路和子

小松成美
ノンフィクションライター


1962年横浜生まれ。人物ルポルタージュ、インタビュー、エッセイ等を各紙誌で執筆。95年に自身初の単行本としてアストリット・キルヒヘアの人生を描いた『ビートルズが愛した女―アストリット・Kの存在』を上梓する。著書に『中田語録』『中田英寿 鼓動』『ジョカトーレ』『イチローオンイチロー』『和を継ぐものたち』『さらば勘九郎 十八代目中村勘三郎襲名』『信じるチカラ』『中田英寿 誇り』など。2008年の最新刊は、アスリート35人のノンフィクションを集めた『トップアスリート』(扶桑社刊)。


53.jpg

1.1980年頃、ロンドンで買った思い出のリッケンバッカー325を抱えて。「このリッケンバッカーは、60年代前半に作られたものです。だから、ジョンが持っていたものにとても近い仕様ですね。音はすごくいいですよ。ビブラート・アームを外して、別のテイルピースにつけ替えた跡があります」
2.「これ、変わったギターなんですよ。ここのフレットだけが、少しだけ傾いて打ち込まれてるでしょ。よく見ないとわからないくらいに。試しに弾いているときに発見してね。失敗作品だと思うんだけど、これが何だか怪しくて(笑)、気に入って買ったんです」

 ジョン・レノンの曲を歌うときは、ジョンの魂が僕のなかに入っているようだ。僕の歌を聴いた人たちは、そう言ってくれます。今のビートルズのコピー・バンドは、本物と同じ楽器を揃えられるし、映像や楽譜の資料も豊富だから、音はよく再現できてるんです。ただ、ボーカルが決定的に違う。僕はとことん研究して、ジョンになり切ろうとしました。歌詞はもちろん、メロディに込められた意味を理解できるか。英語の発音は正しいか。それらをトータルして、最終的に彼らのフィーリングを自分のなかに呼び込み、そこにジョンがいると、観ている人に思わせられるか。説明がすごく難しいんですが、歌ってるときは彼が自分に憑依してるのを感じます。

 中学2年生のときに「プリーズ・ミスター・ポストマン」や「シー・ラヴズ・ユー」を聴いて好きになりました。そして本格的なバンドを組み、高校の頃にはライブハウスに出演してましたね。オリジナル曲を中心にやってましたが、ビートルズをやるとすごくうまいと評判だったんです。徹底的にコピーしましたからね。

 そして1973年にバッド・ボーイズとしてレコード・デビューです。ビートルズのコピー・アルバムを出すとは想像もしませんでした。オリジナルで行くつもりでしたが、関係者に何曲かビートルズのコピーを聴かせたら、そっちが受けてしまって……。ライブで高評価をいただきながらも、裏ではいつも悩みつつ、76年まで活動しました。当時はフォーク全盛で、同じ事務所のオフコースの演奏を手伝ったりするうち、ベースの清水仁がオフコースの正式メンバーになってしまってね。僕は自分のバンドがやりたくて、77年に新たにREVOLVERを結成しました。

 以降はオリジナルばっかり演奏してたんですが、80年にジョンが亡くなったこと、その翌年に六本木にキャヴァンクラブがオープンしたことで、ビートルズの曲を再び演奏するようになりました。運命に呼び戻された感じです。オリジナルとコピーの両立が10年くらい続きました。自分としては中途半端な状態でしたが、若い世代が僕らを観てビートルズ・ファンになったり、最近はアコースティック・ギターのソロでビートルズをやるようになって、それにもまたファンがついて……。ビートルズとは、切っても切れませんね。

 彼らが作ったとしか思えないようないい曲にうまく日本語を乗せたものを作るのが、長年の課題であり今後の目標です。ラトルズというビートルズのパロディ・バンドがありますよね。ああいうものを目指してますよ。ビートルズが演奏してもおかしくなくて、洒落っ気のあるものを。そして、海外のライブハウスで演奏して、日本人としてどこまで通用するのか試してみたいという夢もあります。

 イギリスには5〜6回行ってます。ロンドンは街の造りもファッションも大好きです。いちばん気に入ったのはタクシー。映画『ハード・デイズ・ナイト』にも出てきてたけど、高級車に乗ったような感覚です。運転手さんは知らない道なんかないし、割込みや追い越しもしない。さすが紳士の国ですよ。

 リバプールでは、ジョンやポールの少年時代の家が印象的でした。ポールの部屋はすごく狭かった。4畳半か、せいぜい6畳間くらい。ペニー・レインも、僕が少年期に過ごした大阪の商店街みたいな、本当に小さな通りですよ。イギリスも日本も、労働者の街は同じですね。

取材・文/鳥居一希

廣田龍人
ミュージシャン


1951年2月3日、広島県出身。ニックネームは「RICKY」。73年、バッド・ボーイズの一員として、ビートルズのコピー・アルバム『MEET THE BAD BOYS!』、シングル「ビートルズが教えてくれた」で全国デビュー。77年にはREVOLVERを結成し、現在も活動中。ジョン・レノンの死後、81年から2005年まで、12月8日の命日には、ビートルズの影響を受けたミュージシャンたちを集めて追悼ライブ「ジョン・レノン・フォーエバー」を主催。01年から6年間、六本木キャヴァンクラブの音楽プロデュースを担当してサウンド面を全面的にバックアップし、ハウスバンドのザ・シルバービーツを誕生させた。06年8月にはリバプールの「ビートルズ・ウイーク」にRICKY & THE MICHELLEとして参加。キャバーン・クラブでのライブでオーディエンスから絶賛された。08年10月は、2日に六本木スィートベイジルでデビュー35周年記念ライブが行なわれ、22日には『MEET THE BAD BOYS!』が紙ジャケット仕様CDで再発される。
オフィシャルサイト「廣田龍人ファン・クラブ YELLOW DRAGON」



52.jpg

1. 「今日着ている、4人が飛び跳ねているシルエットが刺繍されたポロシャツは、リバプールのアルバート・ドックという波止場にあるビートルズ・ストーリーのビートルズ・グッズ・ショップで買ったものです。シャツのコレクターには、着ないで取っておく人もいるようですが、僕はどんどん着ます。生活のなかにこういう形でビートルズがあるのはいいですよ」
2. 「ショットグラスも、ビートルズ・ストーリーで買いました。グラスにただTHE BEATLES Storyと書いてあるだけなんですけど(笑)、お気に入りです。たまにこれでウィスキーを飲みますね」
3. 芦原さんが所属するバンド、ロッキング・ホースメンのCD『The Rocking Horsemen』。「91年に『青春デンデケデケデケ』が直木賞を受賞して、郷里で友だちがお祝いをしてくれたんです。その席で、小説のモデルになったバンドといっしょに演奏しました。それがとても面白かったので、正式にグループを結成したんです。丸17年間で、150回くらいステージをやりました。オーストラリアのシドニーで演奏したこともありますよ。いつ物故者が出てもおかしくないから(笑)、ちゃんと音源を残そうということで2008年5月に録音して、CDを作ったんです。僕が作詞作曲したオリジナル曲のみが入っていますが、ライブではビートルズの曲もやります。取り組んでみると、次々に発見がありますね。「エイト・デイズ・ア・ウィーク」は、コードが変わってもギターはEの開放弦をずっと鳴らしているとかね。本来は必要ない音を入れ続けることで、不思議な効果を生んでいるんです。どの曲にも常にそういう驚きがあって、飽きませんね」

 1964年、中学3年の頃に「抱きしめたい」を聴いて、最初は「変な歌だな」と思いましたが、印象が強くて、繰り返して聴くうちにファンになっていました。あの頃はベンチャーズも好きでね。今の人たちには信じられないでしょうが、65年頃、ベンチャーズはビートルズより人気だったんです。

 66年のビートルズ来日公演は、興奮しながらテレビで観ました。香川県の少年には、武道館は遠かったです。東京の大学に通っていた僕の兄貴は抽選でチケットを当てて、生で観たんですよ。悔しかったなあ(笑)。

 94年に『芦原すなおのビートルズ巡礼』という本のための取材で行ったのが、最初のイギリス訪問です。ロンドンとリバプールを中心に、ビートルズ関連の名所を細かく訪ねました。

 ロンドンで印象深いのはアビイ・ロードです。横断歩道に信号がないので、車が途切れたときに渡って写真を撮ろうと思っていたら、イギリスのドライバーは紳士でね。停まってくれるんです。でも、そのうち白バイ警官が2人来て(笑)。「ムーブ・アワイ(立ち去れ)!」とロンドン訛りで怒られました。みんなあそこで写真を撮るから、お巡りさんはうんざりしてましたね。

 リバプールでは、ペニー・レインが格別でした。ラウンドアバウト(バスロータリー)から道路が何方向かに延びて、広々していて。その日はきれいに晴れて、秋口なのに春のような日和でね。気持ちよくて、頭のなかに「ペニー・レイン」の曲が流れてきました。そこにいた子どもたちが、男の子も女の子も、伸び伸びして闊達で人懐っこくてね。自転車でついてきて、「道わかる? 案内してあげようか」なんて声をかけてくれるんです。

 それから、ビートルズの行きつけだったパブをいくつか回りました。ジョンがいつも酒を飲んでバカ騒ぎしていたイー・クラックという店で、彼が好きだったカクテル、ブラック・ベルベットを注文しました。なめらかでおいしかったです。その日はサッカーの試合があって、リバプールが勝ったので、地元の青年たちが大騒ぎしながら入ってきました。店の親父が「うるさい! 騒ぐのなら帰れ!」と怒鳴ったりしてね。イギリスのサッカー・ファンはすごいですよ。もしリバプールが負けていたら大変だったでしょうね(笑)。その他、キャバーン・クラブ、ジョンとポールが出会ったセント・ピーターズ教会の裏庭、ジョンが育ったミミ叔母さんの家……。いろいろな場所に立って、そこにまつわる伝説を思うたび、若い頃の彼らの姿が幻のように浮かんできました。

 イギリスだけでなく、ドイツのハンブルクにも行きました。ビートルズが腕を磨いたレイパーバーンは、ビートルズがいた頃よりずいぶんおとなしい街になったらしいんですが、ストリップ・ショーやアダルトショップなどのいかがわしい店がずーっと軒を連ねていてね。ある店でビールを飲んでいて、店員が「おかわりはどうだ」と言うので、もう1杯頼んだんです。するとシャンペンのフルボトルを2本も出してきて、しかもすでに栓が抜いてある(笑)。ずいぶんぼったくられました。あの街で過ごした頃、ビートルズはさぞかし楽しかったでしょうね!

 ビートルズからは、好きにやってみる姿勢を学びました。とてもすばらしいことです。音楽は、専門的な訓練を受けた人がやるものだという概念を壊して、自分たちがやりたいものを作って歌ってみせた。僕は小説家になったわけですが、遠慮することねえじゃん、自分で書きたいものを書けばいいではないかと。そこにはビートルズ精神というものがあると思います。

取材・文/鳥居一希

芦原すなお
作家


1949年生まれ。香川県出身。早稲田大学大学院博士課程中退。86年『スサノオ自伝』でデビュー。90年『青春デンデケデケデケ』で第27回文藝賞受賞。翌91年同作品で第105回直木賞を受賞。以後、『ユングフラウ』まで、25作を超える著作を発表。かたわらロックバンド「ロッキング・ホースメン」の活動でも知られる。2007年9月から、四国新聞紙上で『野に咲け、あざみ』を連載中。同作品は、新聞に掲載された同日に、RNC西日本放送のラジオ番組で朗読されている。
四国新聞「エンタメ 連載小説『野に咲け、あざみ』朗読」HP


50.jpg

1. 「1967年7月7日の7歳の誕生日に、近所に住む大学生のお姉さんが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』をプレゼントしてくれました」。日本盤は同年7月5日に発売されたばかりで、盤が赤だった。
2. 今も大切にしているプレゼントされた『サージェント・ペパー』。「無人島に持っていくとしたら、迷わず第一にあげるのがこのアルバム。王様が大人になってからは、曲作りの教科書となりました。ビートルズの影響でいえば、このアルバム全体に曲作りのエッセンスがつまってます」
3. ビートルズの初期のカバーを直訳したアルバム『カブトムシ外伝』。収録曲は「ひねってワオ!」「お願い郵便屋さん」「踊るベートーヴェン」「君に首ったけ」「リジーにクラクラ」「月光おじさん」「長身サリー」「男子」「ゼニー」「米とげ、ザ~ッと」「Hey 柔道一直線」「カブトムシキングメドレー」。

 7歳上の兄王様の影響で、幼稚園時代からロックに目覚め、英語の歌をカタカナで口ずさんでいたので、「王子様は英語で歌を歌っておられる」と近所で評判になりました。当時王家にあったドーナツ盤か4曲入りのコンパクト盤の「シー・ラヴズ・ユー」や、アルバムは『ウィズ・ザ・ビートルズ』『ハード・デイズ・ナイト』などを聴いていたのを覚えてます。王子様時代は、ジョンのヘビーな曲よりも、ポールのポップロックが子ども目線で作ってくれたような気がしてお好みでしたね。

 中学校でロック友だちができはじめて、アコースティック・ギター大全集の楽譜に載ってた「ヒア・カムズ・ザ・サン」「ブラックバード」「マザー・ネイチャーズ・サン」がレパートリーになりました。70年代に入りアフター・ビートルズのソロ・アルバムが出はじめた頃だったので、仲間どうしで分担して買うことになりました。「王様くんはギターもうまいし、ジョージかな」みたいな流れで、いきなり高価な3枚組『オール・シングス・マスト・パス』の担当になってちょっと困ったんですけど。

 直訳ロックを本格的に始めたのはサンプラザ中野くんの深夜番組に出たのがきっかけで、その後テレビや商店街でみんなにわかりやすいビートルズをつかみで使わせてもらって、♪きのう~とか、♪助けて~!と歌ってました。

 2005年にはビートルズがカバーした曲を集めた直訳集『カブトムシ外伝』を出しました。初期の頃の曲ですから、入る音もギター2本、ピアノ、ドラム、ベース、あとは手拍子かタンバリンでシンプル。その代わり歌やコーラスにはこだわりをもって、普通ならひとりで全部やっちゃうところを、いろいろな方に手伝ってもらいました。ビートルズの味わいは、ジョン、ジョージ、ポールの声の入りまじったコーラスにありますからね。リンゴは手数の多いテクニシャンじゃないけど、「そうだよね!」っていういい感じのリズムを繰り出すので、ベテランのドラマーを頼みました。王様は、オールドとかのいいギターじゃなく、スタジオに入る1週間前に買ったグレッチのエレキ・ギターとヴォックスのアンプで、ジョージのギターを青々しく弾いてみました。ちょっとハシったりモタったりの揺れも、若い頃のビートルズらしさだと思ったので、自分なりのテンションをセットして。リッケンバッカーのショート・スケールは借りました。

 王様はイギリスは訪問していません。日本を留守にしたのは一度だけで、ロサンジェルスにグランド・ファンク・レイルロードのマーク・ファーナー氏を訪ねて、王様の『めっちゃ陽気な鉄道伝説』のためにギターを入れてもらったんです。氏は一時期リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドでもギター弾いてましたよね。ギターを弾いてる姿が衝撃的で、「グルーブってこれか!」と思いましたね。今後イギリスを訪れる機会があったら、いちご畑養護施設を訪ねてみたいですね。

取材・文/吉野由樹

王様
ミュージシャン


1960年7月7日、リンゴ・スターと同じ日に生まれる。95年直訳ロックCD『深紫伝説』でデビュー。レコード大賞企画賞受賞。英文和訳とギターのテクニックを駆使し、全国各地でライブ活動を展開中。2008年7月4日CD『くりそつ伝説』、DVD『銭湯伝説』同時発売。再発版CD『鋼鉄伝説~金の巻・リベンジ!』を2009年新春発売予定。
オフィシャルサイト「王様のROCK'N'ROLL TOWN」


50.jpg

1. 1976年1月、アビイ・ロード・スタジオでウイングスのメンバーと撮影した写真。「『ぼくがつくった愛のうた』を録音した1年ほど後、安部俊幸とふたりでロンドンに渡ったとき、レコーディングでお世話になったエンジニアに、アビイ・ロードまで会いに行ったんです。そのとき、エンジニアが『ポールがレコーディングしてるから覗いていけよ』って言うんです。レコーディングでナーバスになってる可能性もある訳だし、僕らは、ポールの音楽を作る邪魔をしたくないという気持ちから断ったのですが、外国人にその感覚はわからないらしく、『こんなチャンスは二度とないぞ』っていう感じで、背中を押されるように第2スタジオに入りました。1階にスタジオ、2階にコントロール・ルームがあって、2階なら邪魔にならないと思って座ってたら『何で座ってるんだ、降りていけよ』と(笑)。そうしたらポールが気配を感じたらしくて『何かあったのか?』って言ったんです。それをきっかけに紹介されて下に降りたら、ウイングスのメンバーが拍手で迎えてくれました。ポールから担当楽器を聞かれ、僕がギターとキーボードと答えると『そこのピアノで何か弾いてみろよ』と言われました。どうしようかと迷ったけど、思い切って『レディ・マドンナ』を弾いたんです。すると、ポールが僕に合わせてベースを弾くんですよ! 全身鳥肌が立って、もう何が何だか(笑)。夢のようなセッションでした」
2.限定生産10枚組ボックス・セット『LIVE ACT TULIP 1973-1979』。シンコー・ミュージックの資料庫から発見された4回のコンサート(1973年9月23日、1977年3月20日、1979年8月11日、1979年12月25日)のマルチ・トラック・テープを最新技術でデジタル化した。「その時々の記録を残していこうということで録音したものです。フィルム・コンサート用のサウンドトラック・テープもあって、僕自身、今まで聴いたことがない音源ばかりでした。数日間、(最終日は朝の10時から翌日の朝まで)トラック・ダウンに立ち会いました。手前味噌ですけど、つい聴き入ってしまうほどいい演奏だったんです。MCも、くだらなくてイモくさいジョークを言ってたりするんですけど、そこが愛せるっていうか、『ああ、当時こんなこと言ってたな』って懐かしくてね」

 イギリスを訪れるたびに、ビートルズにまつわる名所はひと通り回りました。ロンドンもリバプールも。ジョンやポールの生家、ストロベリー・フィールズ、ペニー・レーンの床屋さん、『ハード・デイズ・ナイト』のオープニングに出てくるメリルボーン駅にも行きましたよ。リバプールは特に印象深かったですね。外国からの玄関口の港があって、生まれ故郷の博多と似た感じがしたんです。

 当時、博多の街には米軍が駐留していた関係で、極東放送(FEN)があったんです。今ほど情報は早くないですけど、海外で流行っている最新のヒット曲がリアルタイムに近い形で聴けました。小学6年の頃、そこで「抱きしめたい」が流れた。硬い、独特の音色(サウンド)のあの曲を何度も何度も聴いて、ビートルズにのめり込んでいきました。

 中学でギターを始めて、最初のグループ結成は高校時代。後に海援隊に入る千葉和臣と、サイモン&ガーファンクルのコピーをやるデュオ「Lilac」を組みました。その後、別のバンド仲間の安部俊幸や財津さん等とともに、チューリップを結成しました。僕らがアマチュアの頃、東京や大阪では反戦歌や四畳半フォークが流行した時代でしたが、関門海峡を隔てた博多は、国内の流行に対する音楽的鎖国状態というか、洋楽をコピーしたりといった独自の音楽志向がありましたね。

 チューリップはデビュー後しばらくヒットが出なかったんですけど、「心の旅」がヒットしてからは、好きなことを自由にやらせてもらえるようになりました。それで1974年に、ご褒美のような形で、アルバム『ぼくがつくった愛のうた』をアビイ・ロード・スタジオで録音することができました。ポールが「マイ・ラヴ」で弾いたフェンダーのエレピが廊下にさりげなく置いてあるとか、何の変哲もないメガホンが、ジョンが「イエロー・サブマリン」で使ったものだとか聞くたび、「おおーっ」と興奮したりして、なで回すようにいろんな楽器を触ってきました(笑)。

 当時から今まで、ビートルズはずっとお手本です。聴いた感じ、シンプルに思えますよね。「頑張れば自分にもできる」という気にさせてくれる。でも、実際にやってみると難しいんですよ。ちょっと音をぶつけてみたりとか、不協和音の使い方とか、簡単なことをおもしろく組み合わせて、複雑なものを作り上げているんですね。そういうことに気がつけばつくほど、深みにはまってね。簡単そうなのにかっこいい。それがポップ・ミュージックの真髄のような気がして、「僕はこれをやるんだ」と思いました。

 今回発売するチューリップのライブ・ボックス・セットには、ビートルズのカバー「イエスタデイ」「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」も含まれています。ステージでやるかどうかは別に、リハーサルではビートルズやウイングスをよく演奏しました。76年にはビートルズのカバー・アルバム『ALL BECAUSE OF YOU GUYS―すべて君たちのせいさ』も出しました。一番楽しいレコーディングでしたよ(笑)。一生懸命コピーしました。アレンジは変えたくなかったんです。ポールも自分のライブで、ビートルズの曲のアレンジを変えませんよね。フレーズひとつひとつに想い入れがあって「待ってました!」とばかりに、みんなが知ってるサウンドで出てくるのがいいんです。

取材・文/鳥居一希

姫野達也
ミュージシャン


1952年2月1日、福岡市に生まれる。72年6月5日、チューリップのメンバーとして「魔法の黄色い靴」でデビュー。73年リードボーカルをとった初のシングル「心の旅」が大ヒットを記録。その後「夏色のおもいで」「銀の指環」「ぼくがつくった愛のうた」等のヒット曲を歌いボーカリストとしての頭角を現す。85年チューリップを離れ、安部俊幸らとalways を結成。97年からTULIPとしての活動を再開。翌98年にはテレビ情報番組のキャスターを務めるなど音楽以外の分野でも活躍。デビュー30周年を迎えた2002年には、初のソロライブを全国5都市で開催し、04年、07年とソロツアーを続けている。チューリップとしては2000年、02年、05年と全国ツアーを展開し、07年から始まった35周年ツアーも08年2月に大盛況のうちに千秋楽を迎えた。
チューリップ オフィシャルサイト

2008年9月26日発売の『LIVE ACT TULIP 1973-1979』はネット先行予約&販売の生産数限定商品で、一般CDショップでの販売は未定。詳細と予約に関する情報は以下のサイトから。
シンコーミュージック・チューリップ・スペシャル・サイト
財津和夫 オフィシャルサイト


49.jpg

1. ポールと撮った写真を手に。(カフェボッサ三軒茶屋にて)
2.ポールが1990年に来日したときにインタビューをしていっしょに写真を撮り、93年の来日時にはその写真にサインをもらった。「93年のファン会見後、会場の入り口に立ってたポールに声をかけるチャンスがあって、『前回会いましたけど、覚えてますか?』みたいな感じでおしゃべりをはじめたんです。でも、ちょっと離れたところにいたリンダさんに『ポール!』と呼ばれると、ささーっと行っちゃったのが印象的でした。リンダさんはたぶん、ポールからは『ごめんね、もう時間がないから』とは言えないだろうと察して、自分が悪者になってポールに助け舟を出したんだろうと思います。それでもポールは優しく思いやりがあって、これだけのスーパースターなのに、どうしてこんなに低いところまで下りてきてくれるんだろうというのが、そのときの感想でした。ポールの瞳の色は、美しい銀髪のような、深い、光ったグレーでした」

 ビートルズの存在を意識したのは、中学のときに「ロング・トール・サリー」を収めた4枚組の中古のピクチャー・レコードを見つけてからでした。10代前半でしたから、アイドルとしてビジュアルから入った感じです。

 当時ちょうど、EMIがアップル・マークの入った帯に番号をつけて、ビートルズのLPレコードを再発売するキャンペーンをしていたので、第一弾の『プリーズ・プリーズ・ミー』を買って特典のキーホルダーやポスターをもらいました。アルバムを聴いて、ちょっとトーンを落としたような不思議なコーラスにすごく魅力を感じました。ライナーノーツを見ながらスピーカーに耳をくっつけて、いっしょうけんめい4人の声を聴き分けようとしてましたね。1980年でしたから、リアルタイムで聴いたのはポールのアルバム『マッカートニーII』からで、ジョンが亡くなったときには、学校でもラジオでもテレビのニュースでも大きな話題になって、私が興味を持っているバンドがどれだけすごい存在かを実感し、尊敬の気持ちとともにいよいよ本格的にビートルズに夢中になっていきました。

 2007年にテレビのお仕事でイギリスのビートルズゆかりの地に行かせていただいたときに、リバプールにあるカスバ・クラブを訪ねてピート・ベストにお会いしました。いちばん印象的だったのは、ビートルズのデビュー後、事務所に電話をしたら即座に「ビートルズのメンバーはあなたに会うつもりはない」と言われたのが辛かったという話でした。カスバの中に案内されて、ポールが塗った当時のままになっているという壁を見せてくれました。黄、赤、青のイタリア的な印象のすごく派手な色使いで、ちょっとびっくりしたんですけどね。

 キャバーン・クラブでは、夫(アコーディオン奏者の桑山哲也)とともに大好きな「アイ・ウィル」を演奏する機会をいただきました。いつかはリバプールに行けるかなと夢に描いていただけだったのに、まさかステージに立たせてもらえるなんて思ってもみなかったことです。キャバーンでは普段、ビートルズをコピーした演奏が聴けるのだと思いますが、アコーディオンのような楽器を持ち込んだのは私たちが初めてだったようで、お店の方もお客さんも歓迎してくれました。常連さんたちが感激して「また来てね!」と言ってくれたのが、ほんとうにうれしかった。はじめは非難されるんじゃないかと心配していたのが、どこかにふっとんじゃったくらい。ビートルズが「愛こそはすべて」と歌ったとおり、みんなが愛に包まれていることが証明されて幸せな気持ちでした。

取材・文/吉野由樹


藤田朋子
女優



東京生まれ。1987年『レ・ミゼラブル』でデビュー、88年NHK連続テレビ小説『ノンちゃんの夢』ヒロインでドラマ・デビュー。TBS系『渡る世間は鬼ばかり』出演中。シンガーとして、「アイ・ウィル」のカバーを収めたアルバム『THE WOMAN IN ME』(89年)、ビートルズの曲をタイトルにした『Because』(94年)などを発表。2008年9月16日南青山マンダラにて桑山哲也とともにライブを開催。お問い合わせは(株)ホリプロ・ブッキング・エージェンシーまで。
藤田朋子 公式サイト



48.jpg

1. 「初めて自分で買ったビートルズのレコードがこれです!」
2. 1965年に買ったそのコンパクト盤。松尾さんは従兄に「のっぽのサリー」しかいい曲が入っていないと言われたという。ほかには「マッチボックス」「アイ・フィール・ファイン」「スロー・ダウン」を収録。「アルバムよりもコンパクト盤が好きで。同じデザインで色が違うコンパクト盤をいっぱい集めてたんだけど、東京に出てくるときに友だちにあげたり、なくしたりで、最近また集めてます。ビートルズのコンパクト盤は全部そろったので、あとはビーチ・ボーイズとかピーター&ゴードン、ベンチャーズもそろえたいですね」。

 小学校4年ぐらいのとき、女の子たちが学校に持ってきていた雑誌の綴じ込みで写真を見て、「これがビートルズなんだ」と思った記憶があります。当時は『シャボン玉ホリデー』でスリー・ファンキーズが歌っていたのがビートルズの曲だとも知らずに過ごしていて、5年生の夏休みに従兄のところに行ったら本物のビートルズのレコードがあって、聴かせてもらいました。ものすごくかっこよくて、うちに帰る途中で同じレコードを見つけて買ったんです。そのうち従兄はベスト盤の『オールディーズ』をうちに置いていってくれて、聴きまくりました。

 ビートルズが来日したときは、自分の中でビートルズがすべてになりはじめた頃。武道館公演をテレビで放送するというのに、修学旅行の日程と重なっていて、旅行に行かないと言ったら、校長と担任の先生が「修学旅行先では、校長先生の部屋にカラーテレビがあるぞ」と。だったら行くということにして、浅虫温泉の先生の部屋でビートルズを見ました。ステージに出てきて、チューニングして、あいさつするでもなく「ロックン・ロール・ミュージック」が始まって、なんてかっこいんだろうと思った。当時の日本のグループとは一線を画しているように見えました。一緒にテレビを見た子はほかに3~4人いたけど、最後には僕しか残っていませんでした。

 実は小学校まではプロ野球の選手になりたかったんだけど、ビートルズにやられて、「これだな」と思っちゃった。中学からギターを始めたけど、ビートルズは難しいと思ったんだろうね。高校のときのバンドでも、「ゲット・バック」はギターのコードが少ないからやってみようとしたけど、ドラムはあのノリで叩ける人がいない。そうすると楽しくないんですよ。コードを弾くことはあったけど、ビートルズは触れないなと思った。

 卒業後、ジャネットというバンドでコンテストに出て優勝して、デビューすることになって、ロンドンに行かせてもらいました。アビイ・ロード・スタジオでレコーディングできると聞いてたんだけど、コーディネーターの手違いか、行ったらその日は休みで、中にも入れず…。まあ、こんなもんかと思いました。そのときはキングス・ロードやカーナビー・ストリートとか、当時ロンドンにいた成毛滋さんに街中を案内してもらいました。でも、映画『レット・イット・ビー』のあの屋上はどこなんだろうと話しても誰もわからなくて。そういう時代でした。

 ABCを結成してビートルズを演奏する機会は増えました。ただ、演奏をコピーするというより、そのムードをコピーしています。ロックンロールが好きだとか、きれいな曲が好きでビートルズを聴く人もいるし、レコーディングで間違えたところまでコピーする人もいる。ビートルズはマニアックに聴き込もうとする人の気持ちもとらえるような、いろんなフェチを満足させます。人気者とはそういうものですよね。

取材・文/淡路和子


松尾一彦
ギタリスト、作曲・編曲家、プロデューサー



1954年秋田県生まれ。大間ジローとともに結成したジャネットで74年にデビュー、76年オフコースに加入。作曲家として稲垣潤一ほか多くのアーティストに楽曲を提供、ギタリストとして吉田拓郎などのツアーに参加し、プロデューサーとしては斉藤和義らを手がける。96年よりソロ活動を続けるかたわら、オリジナル曲のほかビートルズをカバーするABCや、THE UNITなどのユニットでも活動。2008年8月2日、舞浜クラブ・イクスピアリでのソロ・ライブではビートルズ・ナンバーも演奏する。
松尾一彦 公式サイト



47.jpg

1.鴨川の自宅にあるギャラリーEdo Photosの前で、自身のピンホール写真を集めた写真集『タイムスケープス・ジャパン』を手に。
2.「フリー・アズ・ア・バード」と題された写真(写真集『タイムスケープス・ジャパン』より)と大好きな曲「フリー・アズ・ア・バード」のシングル。1997年に岩手県で撮影したピンホール写真で、曲のイメージとぴったりだったのでタイトルにした。

 ビートルズとの出会いは、1964年2月に彼らが初めてアメリカにやって来る少し前のことでした。イギリスで人気急上昇中のグループとして、テレビで紹介されていたのを見ました。10歳になったばかりの頃でしたが、なぜか心がときめきました。2歳上の姉がいたので「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)」や「シー・ラヴズ・ユー」のレコードもありました。祖父母がニューヨークで帽子の卸の仕事をしていた関係で、ビートルズウィグをもらって、それをかぶって遊んでいた記憶があります。

 中学、高校とビートルズはいつも身近に流れていましたから、共に成長したと言ってもいいかもしれません。高校の頃にアメリカンフットボールのクラブに入りましたが、長髪を切るように言われて、けっきょくクラブをやめました。アメリカもまだそんな時代でした。

 ビートルズでいちばん好きだった曲は「レット・イット・ビー」です。生き方や考え方でもっとも影響を受けた曲です。大学では写真や心理学を学んでいましたが、ドロップアウトして何度もアメリカ大陸を放浪するようになりました。ビートルズとその時代の自由なスピリットに突き動かされたのだと思います。僕の生き方や考え方のベースには、いまもビートルズとその時代にあった新しい空気が流れ続けています。

 放浪を続けて、’79年に日本に来ました。福岡正信の『自然農法・わら一本の革命』の英語版を読んで感銘を受けて、愛媛まで行って彼に会いました。ガーデニングにも興味があって、日本庭園の勉強をするために造園業者に弟子入りもしました。日本に来た翌年の12月にジョンが撃たれて死んでしまいました。僕自身も大きなショックを受けましたが、遠く離れた日本でもそのニュースが大きく扱われていることに驚きました。もっとびっくりしたのは、その半年ほど前に日本の首相が亡くなったときには無関心だったまわりのみんなが深い悲しみに暮れていることでした。アメリカでは、大統領が死んだらもうたいへんな騒ぎになりますからね。

 鴨川の田園地帯で暮らすようになってから、日本の中学校で英語を教えたこともあります。教科書に「イエスタデイ」が載っていて、みんなで歌ったことがいい思い出になっています。’95年に、「フリー・アズ・ア・バード」がビートルズの新曲として初めてテレビで放送されたときには、涙が出るほど感動しました。曲の誕生のエピソードも素敵だし、なつかしさもあったし、曲にも自由な感じが出ていて、いまでは大好きな曲です。

 現在は写真家として活動していますが、ビートルズからインスピレーションをもらうこともあります。たとえば、「フリー・アズ・ア・バード」というタイトルのピンホール写真は、自分の中で写真と曲のイメージとが一致したから名付けたのです。ほかにも、「アクロス・ザ・ユニバース」や「スタンド・バイ・ミー」など、ビートルズやジョンの曲をイメージして名付けた写真もあります。

 80年代にニューヨークを訪れたときには、セントラルパークにも足を運びました。まだイギリスのビートルズゆかりの地を訪ねたことはありません。でも、いつの日か、彼らの故郷リバプールに行って、若い日に情熱をぶつけたキャバーン・クラブを自分の目に焼き付けたいし、写真家としてストロベリー・フィールドを写してみたいと思っています。

取材・文/広田寛治

エドワード・レビンソン
写真家


1953年アメリカ・バージニア州生まれ。州立コモンウェルス大学などで写真と心理学を学び、1979年より日本に居住。京都府、東京都を経て、現在は千葉県鴨川を拠点に活動。ピンホール写真の第一人者として活躍しているほか、デジタルカメラ、フィルムカメラによる作品やエッセイも新聞・雑誌・単行本に寄稿している。著書に、写真集『タイムスケープス・ジャパン:針穴で撮る日本の原風景』 (’07年度パリ写真賞部門別1位受賞) 、『エドさんのピンホール写真教室:スローライフな写真術』などがある。2008年7月28日~8月17日、北海道紋別市立博物館エントランスホールで「エドワード・レビンソン展」開催。
http://www.edophoto.com/


46.jpg

1.ビートルズが『サージェント・ペパー』以降実際に使っていたコンソールの前で、ヘイリーが撮影した写真。「ヘイリーのレコーディングでブリティッシュ・グローブ・スタジオ(ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラー所有)に行ったら、『EMI』と入った写真で見覚えのある調整卓が置いてありました。通称REDDテーブルと呼ばれるこの調整卓は、アビイ・ロード・スタジオを改装するときに廃棄処分されるところを、ノップラーが買い取ったんだそうです。ビートルズそれぞれがこの卓を前に試行錯誤したのかと思いを巡らせると、胸がいっぱいになりました。そのオリジナルに触れられたのは、いちばんうれしい出来事でした。いっしょに写ってるのはエンジニアのスティーヴ・ロウで、ジェフ・エメリックやケン・タウンゼンドのアシスタントから仕事をしてきた人です。ここには、ポールが船上で『ロンドン・タウン』を録るときに使ったモバイル式の8チャンネルの調整卓もありました」。
2.監修をつとめたジェフ・エメリックの著書『ザ・ビートルズ・サウンド最後の真実』(左)と、日本盤のライナーノーツを書いた『ジョージ・マーティン・ボックス』。「エメリックとは、この本が縁でメールのやり取りをするようになりました」「マーティンのボックスには、僕の大好きな冒険心にあふれた若い頃の彼のストリングス・アレンジが集大成されています」。

 中学2年生だった1964年夏、映画『ハード・デイズ・ナイト』公開のときに、映画音楽チャートに1位で初登場したタイトル曲をラジオで聴いたのが、最初の衝撃でした。それまでは学校で女の子がビートルズの噂をしていても関心がなかったのに、この曲を聴いたときには、ただ刺激の強い音楽を聴いたというよりも、ひとつ体験を重ねたような不思議な感じがしたんです。

 1965年冬、「ロック・アンド・ロール・ミュージック」を初めて聴いたときに、ジョージ・マーティンがピアノを弾いていることを知りました。アメリカ盤の『サムシング・ニュー』にはProduced by George Martinと書いてあって、「プロデューサーっていったいなにをする人だろう」とものすごく興味がわきました。ストリングスを入れたり、ピアノをアンサンブルで弾いたりするマーティンの役割は大きくて、ビートルズはロックやクラシックのジャンルを超越して音楽を創造していることがだんだんとわかってきたんです。ライブをやめてスタジオ・ワークに専念するようになると、ますます魅力に感じました。僕はもともと人前に出るのが好きじゃなかったので、プロデューサーとして音楽の仕事ができたらいちばんいいと思うようになりました。思いどおりの職業に就いて、野村義男くんを中心にザ・グッバイを作ったときには、ビートルズのように4人で成立するバンドを意識したので、なんとなくジョージ・マーティンの気持ちを疑似体験できたような気がしました。

 2008年3月から4月上旬にかけて、ニュージーランド出身のシンガー、ヘイリーによる日本のポップスのカバー集を制作するために、ロンドンに行きました。彼女はもともとジョージ・マーティンと息子のジャイルズがプロデュースしているだけあって実力ある歌手で、なんとなくメリー・ホプキンを連想させます。日本では初期の頃の森山良子さんや天地真理さんのようなタイプ。僕もちょうどホプキンの「グッドバイ」みたいな曲をやりたいと思っていたところでした。ヘイリーの代表曲「アメイジング・グレイス」も、岩谷時子さんの日本語の詞でセルフ・カバーして入れることになりました。オリジナル・バージョンはジョージ・マーティンがスコアを書いてジャイルズとともに制作した完璧な作品だったので、それとは違う視点から制作しないと発表する必然はないと考えて、ヘイリーと2005年に亡くなった歌手の本田美奈子さんをバーチャル・デュエットさせることにしたんです。ビートルズの「フリー・アズ・ア・バード」みたいなものですが、当時よりも技術が進んでますから、もう少しナチュラルにできたと思います。

 2007年7月には、服部良一先生のトリビュート・アルバムを作るために、マーティン所有のエア・スタジオに行きました。教会を改装したスタジオで、ここでロンドン交響楽団の演奏を聴くと世界でいちばんいい音がするくらいすぐれています。入口の左側には、マーティンが書いた「イエスタデイ」のスコアが、当時のまま鉛筆の書き込みも見られる状態で、マーティンとポール・マッカートニーのサイン入りで飾られています。

 僕はビートルズからジョージ・マーティンを知りプロデューサーという職業を知りました。ロンドンで仕事をしていても敢えてアビイ・ロード・スタジオを使わないのは、答えを出したくないからなんです。ある種の妄想が今までこういう仕事をうまく続けさせてくれていたと思うし、イメージのなかだけで作り上げたほうが、かえってオリジナリティの高い作品が生まれると信じているんです。

取材・文/吉野由樹

川原伸司
ソニー・ミュージックエンタテインメント チーフプロデューサー


1950年東京生まれ。プロデューサーとして杉真理、ザ・グッバイ、TOKIO、中森明菜などを手がけ、金沢明子の「イエロー・サブマリン音頭」の企画でも知られる。2007年に『服部良一~生誕100周年記念トリビュート・アルバム』などでレコード大賞特別賞を受賞。また、作曲家としても平井夏美のペンネームで井上陽水「少年時代」、松田聖子「瑠璃色の地球」などを発表。2008年にはプロデュース作品ヘイリー『純~21歳の出会い』が6月4日に発売。先行発売シングルのヘイリーduet with本田美奈子.「アメイジング・グレイス」には、ジョージ・マーティンのアレンジ・指揮によるバージョンも収録。


44.jpg

1.20年以上離れていたという実家で、ほとんど手つかずのまま保存されていたビートルズのレコード。
2.同じく保存されていた音楽雑誌から、1968年の『ヤングミュージック』。
3.経歴も年代もばらばらのメンバーからなるバンド「R・O・M・A」のファーストアルバム。ジャケットも含め写真は村松さん自身の撮影。「中学の入学祝いにカメラを買ってもらって、いつも持ち歩いていました。ビートルズの映画を観に行った映画館で写真を撮ると、スクリーンの下に頭が点々としてる。ファンは最初から最後まで、椅子なんて関係なしにスクリーンの目の前に立ってるんです」。

 中学1年の頃、ラジオで「アイ・フィール・ファイン」のイントロを聴いてしびれてしまって、シングル盤を買いに行ったんです。それからは兄とリアルタイムで新譜を追いかけていました。同じ頃日本ではエレキがブームで、兄がエレキギターを買ったので、自分でもほしくなりました。だから、エレキギターをはじめたのとビートルズを聴きだしたのは同時だったんです。

 映画『ハード・デイズ・ナイト』は5、60回、『ヘルプ!』は4、50回は見たかなあ。ファンの女の子たちは、お目当てのシーンでキャーっと叫んだり、台詞をしゃべってました。たとえば『ヘルプ!』のスキー場のシーン。ジョンが切符売り場で「ロンドン」というところでみんな「ロンドン」て必ず言うんです。

 来日公演はステージ正面の一番後ろの3階で見ました。演奏がほとんど聴こえなかったこともあって、音楽としての感動はあまりないんです。今では20世紀最大の音楽家と言われてるけど、当時はただの流行りのバンドですから。当時はビートルズのコンサートを見に行くなんて不良扱いですけど、うちの中学はそんなにうるさくなかったし、その日は土曜で、学校を休まなくても行けたから、学校と闘ったりということはなかったですね。

 高校を卒業してからはビートルズからは全く離れていましたが、 30代に入って、アレンジャーの耳で聴いたらあまりにもすごい。「あ、全部やってる」と思って、真似しちゃいそうで、もう一回封印したんです。それをちょっとずつほどき出したのが35歳くらいかな、もういいだろうと思って聴き出したらやっぱりすごかった。

 ビートルズの特長は、ロックンロールをシンプルにやってる初期は、アレンジよりは曲のセンスの良さ、特にカバー曲のセンスの良さと、ジョージ・ハリスンのギターのセンスの良さ。ジョージはものすごくセンスがいいと思うんですよ。録音のマジックもあるんだけど、別にどうってことないフレーズなのに、ビートルズがやるとものすごくかっこよく聴こえちゃう。ジョージ・マーティンと当時のエンジニアの人たちがすごく上手だったんだろうなと思います。絶対あんな音に録れませんから。60年代の音楽はどれを聴いても特長があるんだけど、初期のビートルズは際立ってすごいですね。その後音楽的なスキルが上がって、ジョージ・マーティンが管楽器や弦楽器を入れたりちょっとしたアイデアを出してくると、もうアイデアの宝庫です。

 ビートルズがいなかったらこの仕事はしてなかったでしょう。音楽だけじゃなくて、その後の色んなものの価値観とか考え方全部の先生、とっかかりを教えてくれた。解散したあとも音楽だけじゃなくて、ジョンやポールそのものがかっこいい。世界中が注目するところで自分の存在自体で、表現者として優れていた。二人も死んじゃったけど、おじいちゃんになっても、ああいうじいちゃんもあるんだなっていうのを見せてもらっています。

取材・文/佐藤義文

村松邦男
ミュージシャン、プロデューサー、アレンジャー


1952年東京生まれ。1973年シュガー・ベイブを結成。アルバム『Songs』、シングル「Down Town」を発表。解散後もソロ・アーティストとして、またサウンドプロデューサーとして数多くのアーティスト、ミュージシャンへの楽曲提供やCM音楽、TV音楽の制作など、幅広い活動を続けている。現在はバンド「R・O・M・A」で活動。2008年7月13日には西荻窪Terra(http://www.wood-corp.com/terra/)にてライブ。また、新人のデモテープを聴くサイト「ネット・スプラウト」
http://www.net-sprout.com/)にシュガー・ベイブの結成から解散までを描いた『あるバンドの物語』を執筆中。
R・O・M・A http://www.romaroma.net/


44.jpg

1.イギリスに行くきっかけとなったウィリアム・モリスのテキスタイルの前で、宝物のひとつ『THE BEATLES ILLUSTRATED LYRICS』を開いて。この本はアラン・オルドリッジがビートルズの曲をイメージして描いたイラスト集。「歌詞も書いてあるから、詩集としても楽しめるんです」
2.ロンドン滞在中に買ったジョンとヨーコのアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』(アイルランド紛争に関する曲を収録)とベスト盤『ジョン・レノンの軌跡』。『軌跡』の発売は'75年で、「これが出たときにはポスターが街のあちこちに貼ってありましたよ」。ポールがプロデュースしているということで買ったメリー・ホプキンの『ポスト・カード』もよく聴いたレコード。手前は『THE BEATLES ILLUSTRATED LYRICS』(表紙)と、'76年にロンドンで撮られた鶴田さんの写真。自ら焼いた陶器のりんごを添えて。

 ビートルズを知ったのは1960年代初め、「イギリスでおもしろい髪形のグループが誕生した」という小さな記事を新聞で見たときです。当時はレコード・プレーヤーも持っていなかったので、ラジオで「抱きしめたい」や「プリーズ・プリーズ・ミー」といった曲を聴いて口ずさんでいました。火がついたのは解散寸前の『レット・イット・ビー』なんです。映画は何回も見にいって、箱入りのレコードは予約して買いました。そのレコードは今、弟(俳優・鶴田 忍)のところにあると思います。

 '72年に友だちの結婚式に呼ばれて台湾と香港に行ったんですが、香港で『ジョンの魂』を買いました。この値段なら買えると思って。これも、何度も何度も聴きました。

 '75年に、ウィリアム・モリスのデザインを見てこようとイギリスに渡って、2年弱滞在することになりました。ロンドンにいたときは、クイーンやプロコル・ハルム、ジョー・ストラマーのバンド101ersなど、音楽を生で楽しむことができて、レインボウシアターやラウンドハウスにもよく行きました。アビイ・ロード・スタジオやアップルも建物の前までは行きました。イギリス中をまわるなかでリバプールにも行きましたが、あのときはビートルズのゆかりの地もそれほど知られていなかったんですよね。それからアイルランドにも行きました。イギリスに比べたら質素な国ですよね。ジョンとヨーコがアイルランド紛争に対して歌で訴えていたこともよくわかって、導かれて行ったような感じがします。

 ロンドンで共同生活していた仲間がみんなベジタリアンで、マクロビオティックの食事もイギリスで知りました。ジョンとヨーコがマクロビオティックの食餌法を実践していたことはあとで知ったんです。今ではミュージシャンでもベジタリアンが多くなりましたね。ロックというのは、矛盾や不平等を敏感に感じて、体制に対して革命を起こしたい、それを歌にして訴える、そういう気運があるでしょう? 当時は、食品公害、環境問題、飢餓飢饉をなんとかしようとしてベジタリアンになった。そこでロックとつながっているんですよね。

 その後イギリスに行ったときに、リンダ・マッカートニーのベジタリアン料理の本やリンダ・ブランドの冷凍食品を見つけました。本は日本で出せないかなと思って少しずつ訳していたんです。その日本版は、ポール・マッカートニーとも親しい深谷哲夫さんが企画したんですが、訳者を探しているということで、出版社から私に電話がかかってきたんです。いろいろなところで彼らとつながって、本当にびっくりしました。

 ビートルズは日常生活の思いを詞にして、すてきなメロディを作る、なんという才能なんだろう!!!! と、感嘆符がいっぱいついてしまうくらいですね。なかでも、私たちの描く理想を歌にしているのがジョンかな。「イマジン」や「平和を我等に」「ハッピー・クリスマス」を聴いたり歌ったりすると、このいちばん重要なことを、人類の理想として追求しないといけないなと思います。

取材・文/淡路和子

鶴田 静
エッセイスト、菜食文化研究家


東京生まれ。1975~77年のイギリス滞在中にベジタリアンになる。ビートルズのメンバーのベジタリアニズムについても本や雑誌で言及。主な著書に『ベジタリアンの文化誌』『ベジタリアンの世界』『ベジタリアン宮沢賢治』、訳書にリンダ・マッカートニーの『地球と私のベジタリアン料理』(絶版)など。2008年8月7日に東京・自由が丘ソフィアホールでセミナー「野原のたべもの歳時記」を開催(申込締切は7月24日)。詳細は下記ウェブサイトにて。
鶴田 静 Voice from Earth Mother  http://www.t-shizuka.com/


43.jpg

1.栗コーダーカルテットの4人。
2.ロンドンではレコードを買うのも好きで、LPは重いので最近はシングル盤が主ですが、それでもCDとはモノとしての存在感が違います。イギリスのシングルのジャケットはいい味がありますよ。
3.最初のアメリカ旅行中、メンフィスでリンゴ・スターと偶然に出会ってるんです。アルバート・キングのコンサートを見たあと、ホテルでものすごく見覚えのある顔の人が通って、その瞬間に手帳を持って、走っていって。僕が「Are you…」って言ったら「Yes」って答えて。会話はそれだけでした。
4.普通だったら「アクト・ナチュラリー」ってそんなに回数聴いてる人はいないと思うんですけど、僕はこの曲をものすごい回数聴いてるんですよ。そんなこともリンゴ・スターを呼んだんでしょうね。
5.『ウクレレ栗コーダー』栗コーダーカルテット:「夢の人」を録音した時に、イントロの部分は曲の肝と思い、そこのアレンジは変えずウクレレで再現しました。他の部分は大幅に変わってますけど。そのカバーは、その後ロンドンのDJやアメリカの大御所アル・クーパーにも気に入っていただいて、音楽をやっていてよかったと思いました。

 中学に入るまではロックとか聴かないような環境だったんですが、兄がビートルズをはじめデヴィッド・ボウイやZEPとかプログレなど色々持っていたので、自然と聴かされるようになっていました。中1の頃コーラスのコンクールがあって、その時に「イエスタデイ」をやることになったので、兄に持ってないかと聞いたら「ある」と。それではじめて聴いたビートルズが『アクト・ナチュラリー/イエスタデイ』のシングル盤です。そのコンクールでは、僕が級長で指揮者をやらされまして。「イエスタデイ」を2拍子で指揮してました(笑)。
 それからずっとイギリスの音楽を主に聴いてましたが、'80年代なかば、友達がアメリカに行くというので、一緒に行ったんです。イギリスのロックミュージシャンが影響を受けたアメリカ音楽の本場、ニューヨークからシカゴ、ニューオーリンズ、メンフィスのサン・スタジオなどを回りました。アメリカ好きの日本人がアメリカに行くというのとは多分違うスタンスですね。
 はじめての海外はアメリカでしたが、ロンドンが好きです。はじめてイギリスに行ったのが冬で、その次に行ったときはいい季節で、あんなに印象が違うのかと思いました。でも冬の寒くて辛いイギリス、ヨーロッパを見ておくと、アメリカ人の表現とは相当違う、こういう人たちの表現の仕方があるんだろうなという気がしますね。ロンドンに行くときは、バート・ヤンシュやウィズ・ジョーンズなんかの演奏が聴ける『12 Bar Club』に行くのが好きです。もちろんアビイ・ロードやリバプールにも行きましたよ。ジョンが育ったミミおばさんの家は、日本人の感覚で言うと案外広いな、と思った記憶があります。「渋さ知らズ」の公演でハンブルクのレーパーバーンに寄ったときには、この激しい街が20や21ぐらいのビートルズを育てたのかと思いました。
 栗コーダーカルテットは「たま」の知久君が僕たちの笛をバックにライヴをすることから始まっています。少数意見かも知れませんけれど、たまこそが日本のビートルズだと思っています。ビートルズの持っているエネルギーや魂が色んなところに飛び火して、日本だとたまに伝わったんだと思うんですよ。僕たちもその火を分けてもらって、マイペースながらもバンドだからできるようなマジックを持ち続けていられるんだと思ってます。音楽を仕事として続けるという気持ちだったら、多分今も続いてないと思うんですよね。自分が生きる上で大事にしている、ロック的なエネルギーとか、熱とか、ウィットとか、そういうものの何かしらにタッチしていたい。ビートルズたちがはじめたロックという音楽をすることがすべてです。職業じゃなくて、考え方の基本、基礎ですね。

取材・文/佐藤義文 写真/宮本 匡(2〜4)

川口義之
ミュージシャン


'80年代半ばに活動を始めたロック畑のサックス奏者。近年はパーカッション、ハーモニカ、リコーダー、ウクレレ等のマルチプレーヤーとして活躍。渋さ知らズ、シカラムータ、梅津和時率いるHOBOサックスカルテット他でロシア、ヨーロッパ全域、モロッコ、アジア公演を敢行。メトロファルス、THE SUZUKI(鈴木慶一&鈴木博文)等に参加。サボテン兄弟商会レーベル社主。趣味は旅と演芸。1994年、栗原正己、近藤研二、関島岳郎と栗コーダーカルテット結成。5枚のオリジナルアルバムとベスト盤他、サウンドトラック(NHK教育テレビ「ピタゴラスイッチ」映画「クイール」「≒草間彌生-わたし大好き-」など)、オムニバス参加、幅広い分野のアーティストとの共演も多い。2008年6月25日にはアニメ「アリソンとリリア」のオープニングテーマ「溜め息の橋」を湯川潮音、エンディングテーマ「サヨナラのおまじない」を松本素生(GOING UNDER GROUND)との共演でCDシングル2枚同時発売。「サヨナラのおまじない」には「夢の人」も収録。
オフィシャルサイト http://www.kuricorder.com/


41.jpg

1.2007年にニューヨークのセントラル・パークで行なわれたユニバーサル・ピース・デイにて。「1984年に始まったユニバーサル・ピース・デイに、2006年から出演させてもらっていますが、2007年の会場がセントラル・パークにある野外音楽堂バンドシェルでした。朝鮮戦争、ベトナム戦争から反戦の思いが広がり、2006年からついに広島がジョイントしました。それ以前のアメリカでは広島、長崎はタブーでしたから、大きな前進です。僕は広島を代表して参加し、歌とメッセージを贈っています」
2.思い出のアルバム『ウイングス・U.S.A.・ライヴ!!』。「1977年3月に行なったデビューと高校卒業を記念したコンサートでは、オープニングにアコースティック・ギターで登場し、『ヴィーナス・アンド・マース~ロック・ショー』のメドレーを、ホーン・セクションも入れた忠実なアレンジで本格的に演奏しました。僕のオリジナルに加えて、『バンド・オン・ザ・ラン』『ジェット』『メイビー・アイム・アメイズド』『イエスタデイ』もやりました。ベース以外は、ポールと同じようにボーカルと、エレキ、ピアノも演奏しました。カバーするためにこのアルバムはほんとうに聴き込んで、コードを聴きとったり、譜面を起こしたりしました。デビュー後はオリジナル中心になるので、こういうステージはこのときかぎりです」

 ビートルズを知ったのは、高校で組んだバンドのベーシストがカセットに録音してくれた曲を聴いたのが最初でした。シンプルだけど印象的なメロディがいいなと思いました。ポップスのスタンダード作品を数多く作り出したバンドとして尊敬しています。その友人のリクエストで最初にコピーしたのが、「ジス・ボーイ」「ツイスト・アンド・シャウト」「エイト・デイズ・ア・ウィーク」でした。ポップ・ロック系のバンドは、演奏ができて、きれいに歌えて、コーラスもつけられないと成り立たないから、高校生にとってはむずかしかったと思います。同じ頃、僕はTレックスやエルトン・ジョンと並んで、ウイングスに夢中になりました。ちょうどウイングスがオーバー・アメリカ・ツアーをしていた全盛期で、ライブ・アルバムにもツアーの映像にも圧倒されました。レーザー光線を使った画期的ステージ演出にぶっとんだし、ウイングスのマークのついたトラックを何台も連ねて移動するようすが空撮されて、それもかっこよくて。
 ロンドンには仕事で何度か行った程度ですが、行くたびに通りすがりの人たちにまで親切にしてもらって、大好きな都市です。デビュー直後の1978年には、ポール・マッカートニーに会うという雑誌の企画でポールの自宅のそばまで行きました。アポイントもなく会えるはずないと思ったんですが、ちょうど子どもたちを乗せた車が自宅の門から出てくるのを見ました。すごく派手な色で塗られたお屋敷を垣間見た記憶があります。その数年後、アビイ・ロード・スタジオで知りあいのミュージシャンがレコーディングしているところにちょっと顔を出したこともありました。1995年ごろ、チャリティの企画でジョージ・マーティンと会う約束をしていました。残念ながらご本人が体調を崩されてお会いできませんでしたが、ビートルズにクラシックのエッセンスをもたらした方だし、僕もストリングスのスコアを書いたりするので、ぜひお会いしたかったですね。
 1980年夏、僕のアルバムをジョン・レノンにプロデュースしていただく話がもちあがり、オノ・ヨーコさんをとおしてジョン本人も「おもしろそう」と言ってくださって話が進んでいました。翌年レコーディングするつもりで曲を書きはじめていたんですが、河口湖で冬のツアーのバンド合宿中に、ニュースでジョンの訃報に接しました。ほんとうにびっくりしました。僕もデビュー前からのテーマとして世の中にやさしい気持ちを復活させるために音楽活動を続けていますが、そういう意味ではジョンとまったく同じ方向にあるので、出会わせてもらっていたら、なにかが生まれていたかもしれなかったのにと悔やまれます。今年(2008年)5月に憲法9条のための9条世界会議での演奏に参加しましたが、最後に歌われたのが「イマジン」で、ジョンの存在の意味をあらためて感じました。僕もようやく海外に向けてメッセージを発信できるようになり、本当の意味のスタートを切ったところです。

取材・文/吉野由樹

原田真二
ミュージシャン


1958年広島市生まれ。77年に「てぃーんず ぶるーす」でデビュー。作曲家としては杏里、郷ひろみ、沢田研二、松田聖子をはじめ200曲以上を提供。チャリティ活動も精力的に行ない、2000年より自然と心の環境チャリティ「鎮守の杜コンサート」(http://www.gentle-earth.org/)主催。国連本部のカンファレンスに招かれての演奏など、欧米はもとよりアジアにおいても広く音楽活動を行ない高い評価を得ている。6月22日横浜市教育会館、28日広島青少年センター、8月5日(現地時間)ニューヨーク・リバーサイドチャーチほかにてピース・チャリティ・コンサート「グローバルハーモニー2008」を行なう。
原田真二オフィシャルサイト http://www.shinji-harada.com/


41.jpg

1.『ア・ハード・デイズ・ナイト』の日本盤LPと愛用のリッケンバッカー。「このジャケットがいちばん好きなんです。写真の感じ、フォントの感じ、全部好き。リッケンバッカーもずっと使ってます。とにかくリッケンバッカーに対する憧れはすごいあって、世界でいちばんかっこいい楽器だって今でも思っている。アメリカの楽器なのにイギリス人が使ってこんなに有名になったところもいいし、この独特な音色はビートルズ・サウンドに欠かせないですね。手に入れたのは14~5年前です。持った瞬間に“これだ!”って思って、ローンをめちゃめちゃ組み倒して買いました(笑)」

 ビートルズは3歳くらいから聴いています。一回りくらい上のすごい音楽好きの従兄弟がふたりいて、彼らがうちにレコードを持ってきて聴いてたのが出会いですね。2つ上の兄貴(黒沢健一)が子供の頃からレコードをおもちゃ替わりにしてたような人で、やっぱり毎日聴いてて。でも僕はビートルズとバッドフィンガーを勘違いしてたんですよ。「ロック・オブ・オール・エイジズ」っていう曲をビートルズだと思ってたのに、小学校高学年くらいになってからその曲を探したらなくて。だからずっと疑問に思ってたんだけど、中学に入って初めて違うバンドだって判明したんです(笑)。そうやって刷り込まれるくらい毎日聴いてました。
 L⇔Rでデビューする前の年の3月にポールが来日して、東京公演は全部見ました。コネもないしお金もないしで、プレイガイドに発売日の前日から並んだんですよ。でもあまりいい席はとれなかった。ライブは感動しましたね~。泣きました。ちょうどデビューの話が来るちょっと前で、兄貴と一緒にやってたバンドがうまくいかなくてみんな辞めちゃって、そういうすごいダメダメなときにポールが来日するって聞いて、ふたりで“もうポールを見て実家に帰ろう”っていうくらいの決意をしてたんですよ(笑)。だから一世一代のイベントでした。曲順通りにカセットに編集して聴いたり、ドームで出待ちをしたり。バカだなぁ。でもあの来日ですごく救われました。あのときにポールが来てくれなかったらL⇔Rは存在しなかったかも…なんて言うと“嘘つけ”って言われそうだけど(笑)。2回目の来日のときは3日間徹夜でプロモーション・ビデオの撮影をして、そのまま寝ないで福岡まで行きました。リンダのレシピで作った料理を食べた後にリハーサルを見られるっていうチケットを10万円で買ったんですよ。忙しかったんだけど“行かせてくれなかったら全員で仕事をボイコットする”ってマネージャーに言って、“俺がなんのためにこの仕事をやってるのかって言ったら、このためなんだ!”ってみんなに言い放って。そのツアーのときかな、「レット・ミー・ロール・イット」でみんなでペンライトを振るところがあったんですよ。テレビ中継があったのに、ものすごく盛り上がって兄貴とふたりで振ってたら、バカ兄弟が揃って映っているのをファンに発見されましたもん(爆笑)。すごい恥ずかしかった。
 でもロンドンに行ったことはないんです。仕事で行く機会があるのはアメリカばかりで。みんなに“なんで?”って聞かれるけど縁がない。あえて遠ざかってるわけでもないんですけど、あんまり積極的に行こうって気にもならない。なんかね、行かないでおきたいって気も半分あるんですよ。自分の想像の中でとどめておきたい。行っちゃうと現実になっちゃうし、自分の中で何かが終わったみたいな感じがしそうで(笑)。ファン心理って複雑ですよね。
 ビートルズが僕にくれたものは、音楽をやる仲間かもしれません。そうじゃない人もたくさんいるかもしれないけど、ロックやってる人はたいていビートルズが好き、ビートルズのことはみんなすごくよく知ってる。そうすると“あの曲のあそこがいいよね”って話になった途端、キャリアとか年齢とか性別とか国籍とかまったく関係なくなっちゃう。そこで意気投合しちゃう。そういうある種の共通言語みたいな部分があって、楽譜とかデータよりみんなの気持ちがひとつになりやすい。そういう意味でも、ビートルズが無意識のうちにくれているものはとても大きいです。

取材・文/佐々木美夏  

黒沢秀樹
ミュージシャン


1970年生まれ。’ 91年、黒沢健一、木下裕晴とともにL⇔Rとしてデビュー。「KNOCK IN’ ON YOUR DOOR」などのヒット曲を残し、97年に活動休止。その後はソロ・アーティストとして活動を始め、現在は作詞作曲家、アレンジャー、プロデューサー、ギタリストなど幅広く活動中。07年11月にリリースされたカヴァー・コンピレーション・アルバム『SUNNY ROCK!』でのプロデュース・ワークは各方面で絶賛された。
オフィシャル・サイト http://www.ourhouse-net.com/hideki/


40.jpg

1.ファンからもらった人形。「みんな俺が好きなのを知ってるからくれるんだよね。ライターとかもたくさん持ってる。自分でもちょこちょこ買うし。ポール・スミスとビートルズがコラボした雑貨とかも大好き。家で使ってるコップも全部「イエロー・サブマリン」(笑)。落ち着くし、かわいいし。特に「イエロー・サブマリン」ものはポップだから、いろいろ集めている。雑貨だけじゃなくて音源もたくさん持ってるよ。バージョン違いとかデモ音源とか大好き。ジャケット違いとかには興味はないんだけど、ボツにして捨てたような曲でも聴けたらすごい嬉しい」 。

 アビーロード・スタジオには『マイム』(’93年にリリースされたレピッシュの6thアルバム)のトラックダウンで行った。エンジニアはスティーヴ・ナイ。泊まったのはスタジオに隣接しているフラット。部屋自体もスタジオの真横。きれいで、バーベキューとかもできるようなす~ごい広い中庭がついてて、環境はめちゃくちゃよかった。なのに中華街で麻雀卓買ってきて、毎日麻雀やってた(笑)。写真を見ても、酔っ払って泥のように床で寝てたり、そんなのばっかり(笑)。でもアビーロードに行けたのはやっぱり嬉しかったよ。ミーハーな俺もここまで来れたか、って(笑)。しかもそこで仕事ができるわけだから、ファン冥利につきる。外の壁がラクガキだらけなのと、横断歩道の線が昔と変わっちゃってたのは哀しかったけどね。ミックスだけだから使ったスタジオは2スタ(ビートルズがよく使っていたスタジオ)じゃなかったけど、いろいろ見学はしたよ。帰るときにアビーロードのトレーナーとTシャツとキーホルダーをセットでお土産にくれたんだよね。決してかっこいいものではないんだけど(笑)、今でも着ずに大事にとってある。
 ビートルズと出会ったのは中学に入ってから。知ってる曲は何曲もあったけど、ちゃんと興味を持って出会ったのは中学1年。「キャント・バイ・ミー・ラヴ」を聴いていい曲だなと思って、調べたらビートルズだった。で、それが入ってるアルバムを友達に借りてカセットにダビングして。その後どのアルバム聴いてもよくて、どんどんハマッていった。いちばん好きなのはポール。高校のとき、入院していた恭一(レピッシュのギタリスト)を連れ出してウイングスのフィルム・コンサートを見に行ったこともある(笑)。とにかくあの人の書くメロディが好き。作曲者としていちばん好き、声も好き。いちばんよく聴いたのは『タッグ・オブ・ウォー』かな。でもここ10年くらいは秘密兵器を隠してる気がする。「レット・イット・ビー」や「ヘイ・ジュード」みたいな曲を書かなくなってるでしょ。ああいう曲があると他の曲も生きてくるのにね。自分で封印してるんじゃないかな。もう飽きてるのかもしれないし、書かなくても歌う曲はいっぱいあるからね。
 ビートルズは間違いなくフェイバリット・アーティスト。精神安定剤。パンクとかニューウエーヴとかも好きだけど、そういうのとは分けてる。だから「フリー・アズ・ア・バード」は本当に嬉しかった。だってビートルズの新曲をリアルタイムで買えたんだよ? しかももろビートルズの中期的な曲だったから、買って最初に聴いたときは涙が出た。ものすごいプレゼントをもらった感じだった。好きなアーティストの新譜っていうのは、プレゼントだと思ってるから。

取材・文/佐々木美夏  

MAGUMI
ミュージシャン


1963年生まれ。熊本出身。’87年にレピッシュのボーカリストとしてデビューし、ミクスチャー・ロック最前線の独創的な曲作りと大暴れのライブ・パフォーマンスで一躍人気者になる。’89年の3rdアルバム『からくりハウス』はトッド・ラングレンがプロデュース。ソロ・シングル「異邦人」のカップリングとしてポールの「夢の旅人」をカバーしたことも。現在はDJ活動もしつつ、6月11日にいしだ壱成らとのユニットVENUS&MARSのアルバム『blueprint』をリリース。
オフィシャル・サイト http://magumi.jp/


39.jpg

1.ポールと同じ仕様にカスタマイズされたリッケンバッカー・ベースで演奏。レパートリーはビートルズ、ウイングス、ポールのソロを合わせて400曲以上にもおよぶ。
2.1990年にポール・マッカートニーが来日した際にもらったサイン。「キャヴァンにポールのバンド・メンバーやスタッフが遊びに来て、楽しんでくれて。彼らに、僕が次の日にコンサートを観に行くことを言ったら、ぜひマッカートニーに会いに来てくれって言われましてね。東京ドームのVIPルームで会わせてもらいました。もう頭は真空状態です。ポールに、君は『ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード』は演奏するのか、と聞かれたので、毎日歌ってますと答えました。そしたら『あれはいい曲だよ』。なんだ自慢かよ!って(笑)」
3.93年にはクルーたちといっしょに福岡まで移動し、市内のホテルに宿泊中のポールとリンダに会った。そのときの記念写真。写真2のサインとともに、六本木のキャヴァンクラブで見ることができる。
4.元ウイングスのデニー・レインと(左)。「2006年1月のアラン・パーソンズ・ライヴ・プロジェクトとの来日公演中、キャヴァンクラブに二夜にわたってツアーメンバーと立ち寄ってくれたんです。『ゴー・ナウ』『夢の旅人』『恋することのもどかしさ』をいっしょに歌い、朝まで飲み明かしたことは生涯忘れられません」。デニーがかつて所属していたムーディー・ブルースのCDにサインももらった(右)。

 六本木にキャヴァンクラブができたとき、専属バンドの一員としてビートルズを専門に演奏するようになりました。それまでのバンドでは、ウイングスもクリームもディープ・パープルもやってたんです。
 自分にとって運命の出会いは、ウイングスのポール・マッカートニーです。中学生のとき、『バンド・オン・ザ・ラン』とかの頃かな。一発ではまった。ビートルズは僕らの先輩の世代のものでしたけど、ウイングスはリアルタイム。「これは俺のもんだ」って思えた。新しいレコードが出ると聞けば店で予約したり。そうこうしながら、ポールを知る前に先輩に聴かせてもらったりしてたビートルズに、改めて遡っていったんです。
 リヴァプールには、ビートルズ・コンベンションに出演するために、ウィッシングというバンドで1997年に行ったのを最初に4回ほど。ビートルズが出ていた頃の場所からは移転してますけど、キャヴァーン・クラブで演奏しましたよ。レンガ造りで、暑いのひと言。人もたくさん入ってたし、すごい湿気で、酸素がかなり薄くなる。歌ってても苦しいんですけど、そのときはアドレナリン出まくりでわからないんです。お客さんも盛り上がって、やめさせてくれないしね。ライブが1回終わって、タバコを吸おうとしたらライターがつかなくて、「酸素がない!」(笑)えらいことですよ。
 1回目の出演で高く評価していただいて、2回目の出演時はストロベリー・フィールドで行なわれたガーデン・パーティのライブのトリをやらせていただきました。あの門の中の広い庭を見た人は、あまりいないんじゃないですか。そのときは15バンドくらい出たのかな。出店なんかもあって、お客さんは1000人くらいいたと思います。子どもたちは遠足か何かに出かけて、建物はからっぽ。中は幼稚園みたいな感じで、お絵描きが貼ってありましたね。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が持つ幻想的な雰囲気、それはそれとして、実際の場所を見ると、あの曲にまた別のイメージがわきました。
 感じるものがあったのは、リヴァプールの港ですね。そこで自分も1曲作っちゃったりしたくらい。失業率が高い土地なので、それなりに寂れてるんです。一度栄えて、衰退していった街。ああいう場所だからこそ出てくるんだろうなって思います。「上に行こう」じゃなく「上をぶち抜こう」っていう、ビートルズみたいなのがね。

取材・文/鳥居一希  

永沼忠明
ミュージシャン


1982年、六本木キャヴァンクラブでビートルズ・カバーバンド「レディ・バグ」の一員としてデビュー。以来、所属バンドをウィッシング〜ザ・シルバービーツと変えながら、25年間レギュラー出演を続ける。97年、ウィッシングでリヴァプールのビートルズ・コンベンションに参加。98年、再びアジア代表としてコンベンションに招待され、アデルフィー・ホテルのメインステージなどで演奏。その功績を認められ、ロンドンのアビイ・ロード・スタジオでオリジナルCDのレコーディングも行なった。ザ・シルバービーツとしても2006年、07年にコンベンションに参加したほか、07年4月、ザ・キラーズのUSツアーにオープニングゲストとして招待され、マジソン・スクエア・ガーデンを含む6公演に出演。08年1月にはワシントンDCの老舗クラブ「9:30」で初のメイン公演が実現、8月9日には東海岸最大のヴァージン音楽祭に出演を予定している。ソロ、オリジナルほか、さまざまなユニットでも精力的に活躍中。
公式サイト http://projectlib.com/dada/


YO-KING

1.UKオリジナル盤シングル・コレクションの一部。「アナログを集め始めたのは21世紀に入って、モノラルってものに興味を持ち始めてから。ビートルズのシングルはほとんどモノラルで出てる。当時のラジオはモノラルだからね。シングルの「レイン」を聴いてびっくりして、今まで聴いてた「レイン」はなんだったんだ、と。『ホワイト・アルバム』のモノラルとかすごい面白いよ。ステレオだと最初のSEの飛行機の音が左右にしゅ~っ、でもモノラルは奥から手前にしゅ~っ。後期のビートルズはエコーっぽいんだけどモノラルは乾いてる。本人たちのOKミックスはモノラルで、ステレオは後でジョージ・マーティンがやってるからね。「レット・イット・ビー」からはステレオだけになるんだけど、ビートルズはモノラルを聴くべきなの。本当はね」

 ビートルズとの出会いは、『悪霊島』(映画)で使われていた「レット・イット・ビー」。もちろんその前からどこかで耳にしてたんだろうけど、小学校高学年であれを聴いて、“いい曲だなぁ”と思ってアルバムを買った。でも聴いてみたらちょっとガクッとしたかもしれない。なんとなくイメージと違って(笑)。でもすぐに『サージェント・ペパーズ』も買って、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を好きになった。小学生でもわかったよ。日本人が好きな泣きのメロディじゃない? オタク気質があって解説とかライナーノーツとか読みながら聴くタイプだから、何かで“ロックの名盤中の名盤”っていうのを読んで『サージェント』を買ったんだと思う。でも10代の頃はそんなに聴いてない。高校に入ってナガイくんっていうビートルズ・マニアと出会って、“俺は全部知っている”って言うのを聞いて“すごいなぁ”って思ったのを覚えているから、俺は高校の段階では全部聴いてなかったと思う。
 難しいんだもん、ビートルズは。ストーンズは簡単にコピーできるけど。でもストーンズを好きになればなるほどビートルズのスケールがわかる。やっぱり1曲1曲新しい発明をしているようなもんだから。ストーンズはブルースとかロックンロールをコピーしながら“あ、新しくなっちゃった”みたいな感じだと思うけど、ビートルズはもっと意識的だったと思うんだよ、新しいことに関しては。それが大成功してるのがすごい。よく言われるのは、最初は黒人のカバーから始めたっていうけど、実はドゥワップを4ピースのビート・バンドでやったのはビートルズが初めてだったと。あれは当時の超最先端。音楽的なマナーに反したことをわざとやってる。で、7~8年で『アビー・ロード』まで行っちゃうってのはすごいですよ。めちゃめちゃ忙しかったと思うけどね。それがちょうど20代に当たってたっていうのも素晴らしい。ジョンとポールがひとつのバンドにいたっていうのもね。ふたりいたから後天的に天才になった部分もあるだろうけど。先天的な天才成分があってこその後天的な天才だから。
 ジョンが死んだのは中1のときだけど、あまり覚えてないんだよね。大学のときはビートルズは聴いてなかった。やっぱ若いからメジャーなものを毛嫌いするじゃない。特にビートルズって下手すると親の世代も大好きなバンドだからさ。そういうのもあって、若気の至りで。再発見のきっかけは何だったんだろう。しばらく聴かなかったことで『キング・オブ・ロック』(95年にリリースされた真心ブラザーズの会心作)ができて、でも街でジョンの声が耳に入ってきたんだと思う。そしたら異常に染みて。本当は好きなのにひねくれて聴かないっていうだけだったから。で、96年に「拝啓、ジョン・レノン」を書いた。そうね、ジョン・レノンはもちろん大好き。ここは俺とは違う、っていうところはあるけど。どこに惹かれるんでしょうね。声とユーモアと頭の良さかな。頭のいい人が好きなのよ、俺。すっごいダメ人間だったんだろうな、とも思うけど(笑)。
 ロンドンには『キング・オブ・ロック』のTDで行った。でもビートルズを聴いてない時期だったから、いわゆる名所は全然行ってない。もったいないなぁ。でもリバプールよりニューヨークのダコタ・ハウスとかに行きたい。
 今は正直言ってビートルズはあんまり聴いてない。でも一生、熱病がときどき来る存在だろうね。今はたまたま来てないだけで。リンゴのフィルが聴きたい、とかね。そんなときがあるんだよね。

取材・文/佐々木美夏  

YO-KING
ミュージシャン


1967年生まれ、東京都出身。早稲田大学在学中に桜井秀俊と真心ブラザーズを結成し、89年デビュー。フォーク・デュオとしてのスタートだったが、その後あらゆるジャンルの音楽を取り込んだサウンドを確立させ、看板ボーカリストとして不動の人気を誇る。並行してソロ・アーティストとしても活動し、“日本一かっこいい40代”を目指す。2008年7月2日には真心ブラザーズのライブ・アルバム『LOVE ME LIVE~MB’S BEST LIVE 06-07~』をリリース。初回限定盤は抱腹絶倒のMC集がついた2枚組。2009年は祝・20周年!


37.gif

1.誕生年と同じ63年製のエピフォン・カジノを抱えて。「ポールが63年のエピフォン・カジノを持ってるんですよ。ポールは右用のギターを逆にして弾いてるんですけど、たまたま同じ左利き仕様があったので。僕にとっては貴重なお宝です」
2.「To Azuma」と入ったポール・マッカートニーのサイン。「友だちが飛行機のファースト・クラスでポールに会ったときに、僕のぶんもサインをもらってくれました。友だちは、ポールがリンダさんに『あ~ん』ってご飯食べさせてもらってる最中、『すみません』って声かけたそうです」
3.アビイ・ロード・スタジオでもらったパンフレットをはじめとしたアビイ・ロード・コレクション。「スタジオの地下に喫茶店があって、コーヒー飲んでる人がいたり、ビリヤードをやってる人がいたり」
4.1980年1月に行なわれる予定だったウイングスの幻の日本公演のパンフレット。

 ビートルズと出会ったきっかけは、いとこのお兄さんがバンドをやってて、そのお兄さんたちに影響を受けて。僕が小学4年生だったから1973年くらいですね。ちょうどそのころジーンズのCMで「シー・ラヴズ・ユー」が流れてて、お兄さんに曲を教えてもらって、レコード屋さんで「この曲が入ってるのをください」と言ったら、手渡されたのが日本盤LP『ビートルズ!(MEET THE BEATLES)』でした。そこからビートルズにはまっていきました。今から思えば、なかなかいい初期のベスト盤でしたね。
 現役で聴いたのは、ウイングスの『ヴィーナス・アンド・マース』。僕はなんといってもビートルズのなかでポールがいちばんカッチョイイと思ってたんです。アルバムがドカーンと売れてて、全米ツアー「オーバー・アメリカ」の時代だったんで、なんていったってポールがかっこいいと思った。ほとんどアイドルのような存在で、「僕もポールのようになりたい」とか、「ポールが弾いてる楽器がかっこいい」とか、夢中でした。小学生の当時はウルトラマンや仮面ライダーの延長線上にビートルズがいて、それと同じ目線でスーパーヒーローとして見てたんですね。ウルトラマンは卒業したけど、ビートルズは今でも憧れの存在です。
 ポールと同じ双子座っていうのはうれしいな。でも、僕もベースをやりたいと思ったのは、いとこがベースをやってたからで、ポールがベーシストだというのはあとから知りました。そして、中学になってようやくベースを買ってもらったときに初めて、ポールがぎっちょだって気づきました。実際弾いてみて、「ああそうか、僕と同じで逆なんだ」って。
 1997年にアビイ・ロード・スタジオに行きました。ナガハタゼンジくんというシンガーが、エルヴィス・コステロのファンで、コステロのバンド、アトラクションズとアビイ・ロードでレコーディングしたいというので、僕がサウンド・プロデュースという形でついて行って、約1週間ビートルズが使った第2スタジオにつめたんです。1階にフロントがあって、通路があって、第2スタジオのドアを入るとまずミキサー・ルームがあって。そこから階段を下りていくと、ビートルズが録音した場所。地下と1階が吹き抜けになっていて、けっこう広いんですよ、第2スタジオでも。自然のいいリバーブがかかって、ハンドクラップを録るにはすごくいい感じのところだなと思った。当時のビートルズの写真を見ると、コンソールの位置はずれてるんですけどね。日本では普通、楽器を録るときも歌を録るときも、別々になったトラックを好きなバランスにしてヘッドフォンで聴きながら録音できるんです。ところが、アビイ・ロードにはそういうシステムがない。ただトータルのミックスが返ってくるだけなんです。衝撃的でしたね。アビイ・ロードにもプロトゥールスがすでに入ってる時代にですよ。
 全スタジオを見せてもらったんですけど、第1スタジオはもっとでかくて、体育館くらいのイメージがありました。椅子とかが古くて、のちに『アンソロジー』で観て、ビートルズのレコーディングに参加してるオーケストラの人たちが座ってるのと同じだと、僕は確信してるんですけど。その赤い椅子をさわったり写真を撮ったりしてきました。「これはビートルズの時代にあったのかなあ」とか、とにかくビートルズにゆかりのあるものを探そうと、ミーハーみたいでした(笑)。

取材・文/吉野由樹  写真/小倉直子

風祭東
ミュージシャン、プロデューサー


1963年6月13日東京生まれ。ポール・マッカートニーと同じ左利きベーシスト&ボーカリスト。85年、チューリップを脱退した安部俊幸、姫野達也とともにALWAYSを結成し、86年にシングル「好きさ」、アルバム『ALWAYS BE TRUE』でデビュー。95年には杉真理、松尾清憲らとピカデリーサーカス結成。ミュージシャンとしての活動のほかに、プロデューサーとしても活躍。2008年にソロ活動を再開。6月14日には45歳の誕生日を記念して「アコースティック・ソロ・ライブVol. 1 ~45GO!~」を下北沢440で行なう。
風祭東オフィシャルウェブサイト http://www.azuma-pop.com/


杉 真理

1.ジョージ・マーティンと撮った写真を持って。

2.リアルタイムで買ったシングル。「大森駅の駅ビル2階にあるレコード店で買いました。最初に『ロック・アンド・ロール・ミュージック』と『のっぽのサリー』を買いに行ったら、大学生くらいのお姉さんたちが『ロック・アンド・ロール・ミュージック』のジャケットの4人を指差して笑いものにしてたんですよ。『見てよ、この髪型!』って。僕が横からそれを取って買ったら、そのお姉さんたちに『なによ、あの子』って笑われたのを覚えてますね(笑)」。発売当時のEP盤『マジカル・ミステリー・ツアー』もいまや貴重。

 小学校5年のときに、チョコレートのコマーシャルで「ア・ハード・デイズ・ナイト」の曲と映像が流れてビートルズにはまり、レコードを買うようになりました。最初に衝撃を受けたのは、「のっぽのサリー」と「ロック・アンド・ロール・ミュージック」。それまでそんな曲もなかったし、あんな歌声も聴いたことなかったし、あのエネルギーにも驚いた。学校じゃ教えてくれなかったことだったんで。僕はリアルタイムで聴いてたから、新曲が出るたびに毎回衝撃を受けてた。次の衝撃に構えるんだけど、それ以上のものを出してくるんで、もう驚きっぱなしでした。
 70年代に大学生でバンドを組んだんですが、ビートルズ関係は真似できないんですよ。すごく難しくて。ビートルズをコピーする場合、全員その雰囲気を持ってないと、ひとりでも違うムードのやつがいると、もうビートルズじゃなくなっちゃう。それで目標としたのが、ウイングスだったんです。メンバーに女性もいたし、ひとりは竹内まりやだったんですけれども、女声コーラスをまじえて。ウイングスってコーラスが重要じゃないですか。アイデアといい、ポール・マッカートニーを最初から意識してました。70年代は頭でっかちな時代だったんで、理屈っぽい人ほど評価されるところがあって、どちらかというと、ジョン・レノンの時代だったんです。勿論ジョンは理屈を越えた人なのですが。ポップという言葉が、「軽い」とか「コマーシャリズム」だとか悪い意味で使われていて、そんななかポールが先陣を切ってがんばってたので、僕はこの人について行こうと決心したんです。
 僕がイギリスにレコーディングに行ったのは1989年。アビイ・ロードにはその前で写真撮りに行っただけなんです。ロンドンのハムステッドを散歩してたら、古い教会があって、「ここがエアになるんだよ」って言われて。その教会が改装されて、エア・スタジオ(ジョージ・マーティンのスタジオ)になっているんですよね。
 ジョージ・マーティンには1996年に加賀で行なわれたアマチュア・バンド・コンテストでお会いしました。マーティンさんが審査員長、僕は司会と12人の審査員のうちのひとりで。いよいよ審査のときに、たとえばみんなで「これはジョージ・マーティンさんに決めてもらおうよ」ってこそこそ話していると、「私は彼らと親しすぎるんで、決められないから、あなたたちで決めてくれ」って先手を打ってきたり。僕らが「ジョン・レノン賞はこの人がいいと思います」と言うと、マーティンさんは「はあ、彼がですか。私はどこを聴いてもジョン・レノンを感じなかったんですけど、きっと詞がジョンっぽいんでしょうね」って言って、最後にはその人に手を挙げてくれたり。12人のうちひとりだけ反対すると、「君は映画『十二人の怒れる男』のヘンリー・フォンダみたいだな」と冗談を言ってイギリス人ぽいところを見せてくれました。最後のあいさつのときには、こう言ったんです。「みんなもものすごくがんばったけれど、お客さんもすばらしかった。ほんとうにみんなを家に連れて帰りたい」。「サージェント・ペパー」の歌詞なんですよ。そういうちょっとしたウィットが、さすがジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、リンダ、ヨーコというくせ者たちを仕切るだけの人だなと思いました。

取材・文/吉野由樹  写真/小倉直子

杉 真理
ミュージシャン


1954年福岡県生まれ。’77年Mari & Red Stripesとしてデビュー。その後もソロのかたわらBOX、ピカデリーサーカス等のバンドを結成。2008年1月に発売されたデビュー30周年ソロ・アルバム『魔法の領域』には、ピカデリーサーカスのメンバーで録音した「Make Love Not War」や、BOXのメンバーによる「Lennon=McCartney」などが収録されている。ソニー時代のアルバムが紙ジャケットで再発売中。5月23日にはソロ・ライブ「30th Anniversary~魔法の中心~」をShibuya O-EASTで行ない、6月22日の名古屋公演からミニツアーを開催。
杉 真理公式サイト http://homepage2.nifty.com/masamichi-sugi/


35.jpg

1.アビイ・ロード・スタジオでご自身のバンドでレコーディングを行った福岡さん。ギターはポールと同じ1962年製エピフォン・カジノ。
2.アビイ・ロード・スタジオは録音した音源をこのようなDVDかオープンリールのテープで送ってくれる。
3.近著『ビートルズへの旅』共著のリリー・フランキーとは5年くらい前からのつきあいです。写真の方は、今まであまり世の中に出ていないようなものがあります。カスバ・クラブの細部の写真や、アビイ・ロード・スタジオの内部の写真です。例えば、ジャングルピアノと呼ばれる調律を変えてあるピアノがそのまま残っていて、ビートルズファンにはたまらないでしょうね。また、ジョンとポールが出会った現場に居合わせたおじさんがいて、その人の写真も載っています。今回はイギリスだけにしぼったので、一カ所に何ページも使った深いものができました。

 撮影でほとんど世界中を旅していますが、どこへ行ってもビートルズ関連のものを探すんです。インドのレコード屋でインド盤を買うとか、中国なら中国盤を買うとか、ビートルズに関連するものをいつも探している感じですね。ビートルズに関するチラシやポスター、レコードだろうがCDだろうが、いつも追いかけて、とにかく写真に撮りたい。「ビートルズとは?」と聞かれても一言では答えられないんですが、そういう存在です。まさにビートリーライフという感じです。
 ビートルズファンがリバプールに初めて行くなら、まずはマージー河のほとりを散歩するといいと思います。マージー河に落ちる夕日は本当にきれいです。ツアーコースの中のジョンとポールの家は、写真ではなく実際に見なければわからないすごさに感激すると思います。ミミおばさんの家の入り口に小さいポーチがあって、そこでジョンとポールがギターを弾いてコーラスの練習をしていたというようなことをガイドさんが説明してくれますが、実際そこへ行くとエコーが気持ちよくかかって、声がよく響くんですよ。ポールの家は、『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』(2005年)のジャケットになった裏庭がそのまま再現されていて、ポールがいつも見ていた風景がわかります。
 リバプールのマニアックな場所なら、ジョンが通ったパブ「イー・クラック」の裏庭の、夏だけ解放されるらしいスペースがおすすめです。みんな昼間から酒を飲んでいて、ビートルズ抜きでもそこが一番気持ちいいですね。ジョンが通った店ではフィルハーモニック・パブも、イー・クラックとは全然違う、いかにもヨーロッパらしいゴシックで荘厳な造りがいいです。
 ロンドンへ行くならまずアビイ・ロードですね。アビイ・ロード・スタジオの近くではリージェント・パークや、動物園もあります。ハイド・パークなど公園も多く、気持ちいいところはいっぱいありますよ。ロンドンは新しいビルがどんどん建ったり、ものすごく変わってきているのが寂しいですが、「ヘリテージ(遺産)」といって、残さなければならないものは法律で守られています。アップルビルなどもその指定がされていて、ビルのオーナーが変わっても中は変えられないんです。
 イギリスに行くなら初夏、5月から7月あたりをおすすめします。気候が良く、自然もきれいですから。ビートルズは当然イギリスの寒くて暗い冬も過ごしているわけですから、それを知るためには冬も行かなければいけないんですけどね。

取材・文/佐藤義文

福岡耕造
写真家


1960年長野県生まれ。東京造形大学デザイン科で写真を学び、イギリス放浪の旅へ。帰国後、フリーの写真家として活動を開始。広告、雑誌を中心に第一線で活躍している。また、音楽への造詣も深く、十数年にわたり世界中のビートルズ所縁の地を撮り歩いている。 2008年4月、リリー・フランキーとの共著『ビートルズへの旅』(新潮社)発売。
オフィシャルサイト http://www.fukuokakozo.com/


34.jpg

1.鈴木さんがリーダーをつとめるザ・ビートルースのステージ衣装は、『サージェント・ペパー』のコスチューム。「僕は92年にバンドに合流したんです。当時のビートルースは音はよかったけど、私服で演奏してて見た目がアマチュアっぽかった。そこで、僕が知り合いに頼んで作ってもらった『ペパー』のコスチュームをステージ衣装にしたんです」
2.思い出の品は、ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンのサインが入った賞状。1996年に石川県加賀市で行なわれたビートルズ音楽祭で、ビートルースが準グランプリに選ばれたときのもの。
3.ザ・ビートルースは97年にCD『マジカル・ドリーミィ・ツアー』(左)をリリース。ダイレクトなスタジオ・ライブ的サウンドで、ビートルズ・テイストあふれる2曲のオリジナル曲も収録している。99年9月にリリースしたセカンド『エニシング・ニュー』(右/現在入手困難)は、ファーストとは対照的に200時間以上を費やした精密なレコーディング。ジョージ・マーティンが絶賛した「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」も収録!英国テイストあふれるポップなオリジナル・ナンバー3曲も注目される。

 1992年6月、ポールの50歳を勝手に祝おうと、ラバーソウルのお客様やバンド仲間と20人ぐらいでイギリスに押しかけました。僕らのことは『リヴァプール・エコー』紙にも載ったんですよ。リヴァプールのビートルズ・ストーリーっていう博物館の中の、キャヴァーン・クラブを模したパブに、リンゴの前のドラマーだったピート・ベストを呼んで、インタビュー兼パーティをやりました。呼んでないのに、ビートルズの元マネージャーのアラン・ウィリアムズまで来てね。僕がタバコを吸いに外へ出たら彼も出てきて、彼が「今、面倒をみてる」という、タートルネックを着たビートルズふうの若い3人組を紹介されたんです。若き日のジョン、ポール、ジョージの姿と重なりました。横にはマージー河が流れてて、ちょっとしたいい雰囲気でしたよ。
 ロンドンで訪ねたアップル・ビルは最高! 映画『レット・イット・ビー』がオーバーラップして、屋上を見上げていると「ゲット・バック」や「アイヴ・ガッタ・フィーリング」が自分の頭の中で聴こえてくるんです。たまたま警官が歩いてきても、「このお巡りさんが文句言いにビルに入って行ったんだ」とか(笑)。僕は「レット・イット・ビー」がビートルズとの出会いでしたから。
 71年かな、小学校5年生の頃。家族でテレビを観ていたら、映画『レット・イット・ビー』の映像が使われたステレオのCMが流れたんです。「Let it be〜」と歌が聴こえた瞬間、自分の中にボカーンって雷が落ちて、「うわー、この曲何?」。今は亡き父に聞いたら「ビートルズっていうんだ。プレスリーより上だぞ。すごい音楽家なんだ」。昭和ひとケタ生まれで、ちっちゃな印刷会社をやってた父がそんなこと言うのにびっくりしました。
 あの歌を歌ってるのはブロンドの髪の知的なメガネの人(ジョン)で、ヒゲが濃い人(ポール)じゃないと思い込んでましたけど(笑)、先輩とビートルズ映画の3本立てを観に行ったら、ヒゲの人が歌ってた。屋上でベースを弾いてる姿とかメッチャかっこよくて、一気にポールに憧れましたね。いとこから500円で買ったギターの弦を4本に減らして、1オクターブ下げて、ベースにして弾いてました。その頃、6年生にビートルズ好きのちょっとワルのお兄ちゃんがいたんです。彼がシングル「レット・イット・ビー」「ヘイ・ジュード」と、アルバム『ヘイ・ジュード』を持ってまして。聴きたくてしょうがなくて、その子の家に行って、その3枚を何回も何回も、呆れられるぐらい聴かせてもらってたんです。親には「塾に行く」と嘘をついて来る日も来る日も毎日毎日…。2ヵ月ぐらい後にばれて、当時まだ家にあった防空壕に閉じ込められましたよ(笑)。

取材・文/鳥居一希

パウロ鈴木。
ミュージシャン


1961年愛知県出身。71年にビートルズと出会い、直後にNHK『ヤング・ミュージック・ショー』でEL&Pを目撃する。84年までオリジナル・プログレバンドGOMAで活動。88年に六本木キャヴァンクラブ等でビートルズ・ワークを開始するまで、環境音楽的作品を劇団等に提供。91年には自らの音楽アトリエ空間的ライブハウス「ラバーソウル」をオープン。92年にザ・ビートルースと合流。96年にはビートルズ音楽祭にてジョージ・マーティン氏から直々に賞を受け、それをきっかけにビートルースとしては2枚のCDをリリース。ソロ活動も多く、英国政府観光庁「英国式幸福論」イベント、東京タワー企画(展望台ライブCLUB333)などに出演。08年4月13日、名古屋ドームにて開催の「アクティブ・シニア・フェアー」にビートルースで出演。6月にはGOMA2でも正式なプログレCDデビューを飾る。執筆参加作品に『ザ・ビートルズ大全』『プログレッシブ・ロック入門』(河出書房新社)などがある。
ラバーソウルレコード公式サイト http://www.beatle-japan.com/


33.jpg

1.バックにかけてあるのは『レット・イット・ビー…ネイキッド』のブランケット。
2.集めた『レット・イット・ビー』グッズ。「コレクターじゃなかったんですけど、最近、池袋でやってたロックンロール・バザールに何気なく入って、気がついたらいっぱい買ってました。こんなに買ってどうするんだろう? って思いながら(笑)。昔は収集癖なんかなかったのに、この年になると昔のあのワクワクする気持ちをもう1回呼び戻したくなるんでしょうか。とにかく『レット・イット・ビー』のジャケットのデザインが好き。あのデザインのものを見ると吸い寄せられます。携帯ストラップは買ってすぐ取れて、替えてもらいに行ったんだけど、また取れそうで怖くて使えません」

 ビートルズを好きになったのは小学校5年のとき。『レット・イット・ビー』が出た頃で、ステレオのCMで見たのがきっかけです。それで衝撃を受けて、『レット・イット・ビー』の次に買ったのは『ホワイト・アルバム』ですね。親に買ってもらったんですけど、予備知識がないんで売り場で「どれがいいかなぁ、2枚組がお得かな?」とか思って。でも英語の歌詞カードが読めないんで、その場で店員さんに、タイトルにフリガナを振ってもらったんですよ、全曲(笑)。40曲くらい入ってるのに(笑)。あとで見たらちょっと英語の読み方が怪しいところがあったけど、でもすごい感謝してます。その方に改めてお会いしてお礼を言いたいって話を、僕がときどき出ているあるライブハウスの店長さんにしたら、なんとその人がそのライブハウスに来たことがあるという。フリガナ振ってくれなんて頼む子供は他にいないだろうから、覚えててくれたんでしょうね。テレビでもその話をしたことがあるから、多分それを見てくれて、店長さんと話したみたいです。まだ会えてないんですけど、そのうち対面できそうで楽しみです。小学校5年生以来ですよ? もう40年近くたってる。これもビートルズが取り持つ縁ですね。
 他にもそういうことがあるんですよ。高校3年のときにある文化祭で演奏したんですけど、暇なときに他の教室を見たらジョン・レノンの格好をして歌ってる人がいたんです。ルックスはまるでジョン・レノンなんだけど、ポール・マッカートニーの曲ばかりやってる(笑)。上手だし、それがすごく印象深くてずっと気になってたんですよ。それから30年くらいたってこの年になって、六本木キャヴァンの楽屋でそんな話をしてたんですよ。「こういう人がいて、すごい上手だったからアメリカに渡ってビートル・マニアに入ってやってると思う、それくらい上手かった」って言ってたら、「それ俺かもしれない」って目の前にいる人が(笑)。小松陽介さん(メイクレットのメンバー)です。「えっ!?」って。そういうことがあるんですね。ずっと思い続けてるとね。びっくりしました。憧れの人だったのに、その人と今一緒にやってるなんて。「すいません、日本にいて」って言われました(笑)。
 ロンドンとリバプールには一度、1998年に行ったことがあります。アビーロードでは普通のおのぼりさんみたいに横断歩道で写真撮ってもらって、写真撮ってあげて(笑)。サヴィルロウの元アップルオフィスにも行きました。上には上がれなかったけど、見上げて「ここでやったんだ」ってしばらくじっとしてました。階段に座っちゃったりなんかして(笑)。リバプールへは強行軍で、その日に帰らなきゃいけなかったから2時間かけて行って2時間いて2時間かけて帰ってきました。キャヴァンに行ったら、バンドがリハーサルがてら演奏してたんだけど、こんなに狭いとこでやってたんだ、って。六本木のキャヴァンより狭いですもんね。でも思ったよりきれいな街でした。
 ビートルズは何回聴いても飽きないですよね。不思議です。聴くたびにもっと聴きたくなる。何かを調べたくてその曲をかけると、気がついたらその後の曲も全部聴いてたり(笑)。いまだにコピーなんてしきれないですよ。「レット・イット・ビー」のイントロでさえいまだによくわかりません。こうかなぁ?って思いながらやってるだけで、実際に聴くとそのたびに違って聴こえる。どういう録り方をしているのか、マイクの位置によっても違いますからね。すべてそうです。だから奥が深い。常に、まだまだだなぁって考えながらやってます。

取材・文/佐々木美夏

伊豆田洋之
ミュージシャン


1959年生まれ。高校卒業後、絵の勉強のためにアメリカ・イリノイ州に留学。その後ロサンゼルスのピアノ・バーで弾き語りをしていたところ日本の音楽関係者の目に留まり、帰国してデビューを果たす。現在は杉真理、松尾清憲らとピカデリーサーカスで不定期に活動する一方、ビートルズのコピー・バンドにも複数所属。2008年4月24日には川崎クラブチッタにて杉真理、村田和人、山本英美と恒例の“ピュア・ミュージック08 スプリング・セッション”に出演。


32.jpg

1.六本木・アビーロードのステージで、愛用のヘフナー・バイオリン・ベースを持って。
2.「レディ・マドンナ/ジ・インナー・ライト」の日本盤シングル。「お客さんにいただいた記念の品です。いただいたとき、高いLPが買えずにドーナツ盤を買っていた懐かしい頃を思い出しましたね。どういう意図でくれたのかな。この曲やってよ、っていうことだったかも。『レディ・マドンナ』はよくリクエストされる曲なんです。でも、もしB面曲へのリクエストだったら、インドの楽器がいっぱい入ってて大変ですね(笑)」


 13歳のとき、友達に聴かせてもらったのがビートルズとの出会いです。ほぼ同じ頃に楽器もはじめて、ビートルズのコピーバンドを組みました。最初はジョンを担当していたんですが、19歳のときにオーディションを受けて入ったバンドで、人より高い声が出るということで、ポールをやることになりました。ポールのボーカル・パートはキーが高いですから。そのとき楽器もギターからベースに転向して、もう20年以上経ちます。
 イギリスには、これまで6回行っています。今のバンド、パロッツに加入してからビートルズ・コンベンションに出演するために行ったのがほとんどです。イギリスに着いて、荷物をほどいて、楽器を出して、手に持った瞬間にビートルズ臭がするっていうか、「おおっ、イギリスでヘフナー・ベースを持ってるんだ」と、士気が高まりますね。
 リヴァプールのキャヴァーン・クラブでも演奏したんですけど、それよりもロイヤル・コート・シアターという劇場でやったのが印象に残っています。日本の会場と違って、2階席、3階席がせり上がってて、天井に人がいるような感じなんですよ。しかもお客さんはみんなイギリスの人で、外国人ですよね。実際は僕らが外国人なんですけど。その景観に驚いて、「ヨーロッパの劇場でやってるんだな」って感激しながら演奏したのを覚えています。
 観光に行くことはほとんどありません。ただ、ジョンとポールが出会ったウールトンのセント・ピーターズ教会には行きました。ポールがジョンに「トゥエンティ・フライト・ロック」なんかを歌って聴かせた、まさにその場所を、ガイドさんに教えてもらったんです。でも、あまりにも普通の場所で(笑)。ただの教会の、狭い庭の片隅みたいなところなんです。「こんなとこで!?」みたいなね。感動のしようもなかったくらい(笑)。もしジョンとポールにこの話をしても、「そりゃそうだよ、お前ら何を見に行っとんねん」って言うと思うんですよ。
 16歳くらいの頃はちょっとパンクに寄り道したりもしたんですけど、ビートルズは最初に刷り込まれた洋楽ですから……親みたいなものです。幼児体験からは抜けられませんね。誰でも聴ける普遍性と、誰にもできない独創性が一体化しているところに偉大さを感じます。

取材・文/鳥居一希

野口 威
ミュージシャン


大阪府出身。19歳で大阪キャヴァンクラブの専属バンド、グリーン・アップルに加入。ポール役としてベースに転向し、プロとしてのスタートを切る。1995年、グリーン・アップルの解散とともにオリジナルバンドを結成しCDデビュー。3年間の活動の後、99年6月、ザ・パロッツに加入。東京・六本木のアビーロードでのライブ活動のほか、リヴァプールで行なわれるビートルズ・コンベンションへの出演などで、海外でも高い評価を得る。現在、ベスト・ライブ・パフォーマンスをまとめたパロッツのCDリリースを企画中。
六本木アビーロードHP  http://www.abbeyroad.ne.jp/


31.jpg

1.シルバービーツでは「マブJohn」と呼ばれる。
2.「このジョンのノースリーブは68年から69年に、ロンドンのブランド店でジョン自身が特注して着ていたものです。表面には『ヘルプ』の歌詞が直筆原稿から印刷されていて、逆さの十字架はアンチ・クライストを表しています」。
3.「クイーンのブライアン・メイとロジャー・テイラーが来た時、僕はステージで『ツイスト・アンド・シャウト』を歌っていて、その中で『RADIO GA GA』の手拍子をやったら二人とも一緒にやってくれたのには、本物がやってる!と感激しました」。二人が「パーフェクト・ジョン!」と喜んで裏面にサインしたギター。

 六本木キャヴァンクラブで、「シルバービーツ」というビートルズバンドのジョンとして毎日のように演奏していると、当時のビートルズを知ってる世代のお客さんばかりじゃなく、自分より若い子や5歳の子だったりがやってきて「これやって」なんて言ってきたりします。それはとんでもないことだなと思います。珍しいからなのか、海外アーティストもよく見に来てくれます。
 親が好きだったのでビートルズを知ってはいました。中学生の時、CDを1枚買ってもらって「この人誰?」って聞いたら「ジョン・レノンよ」って。「『イマジン』の人?」「そう」。その頃「イマジン」のジョンが好きだったのに、ビートルズのジョンとは知らなかったんです。まったく違う二つのことがつながって、その時からビートルズ一色になりました。同じ時期にギターを弾きはじめて、「ビートルズが俺の運命だ!」とまで思いました。勝手にビートルズを指導者にして、何か知らないけどすごいパワーをもらっています。ビートルズマジックというんですか、それにまんまとはまった感じです。
 イギリスへは、2006年と2007年に「ビートルズ・コンベンション」に出演するために行きました。ロンドンなら、郊外のチズウィック公園がおすすめです。「ペイパーバック・ライター」のプロモーションビデオを撮ったものすごくきれいな公園で、ビートルズが好きならぜひ行ってほしいです。僕が行った時は当時の風景がそのままで、晴れた日だったので木々が青々としていて美しかったです。ジャケット写真の木もありましたが、30年以上経ってますから、低いところにあった枝が上の方にあったり、時間が流れていても空気は同じだと思いました。あの銅像もそのまま残っていて、はじっこを削って持って帰りたいくらいでした。
 リバプールは、マシューストリートの周辺から外れたあたりへ行くと、ジャカランダとか、地元の人がただ陽気に酔っ払っていたりして、観光地っぽくない、昔のままのさびれたリバプールがあります。ジョンやポールがこれを飲んでいたと言えば、とりあえずそれを頼んでみたり、「彼らがここにいたんだ」と思える場所は行ってみるといいと思います。ただ、こわいと言うか、夜歩いたら危ないかもしれませんね。
 リンゴの『センチメンタル・ジャーニー』のジャケットに写っている店も、まだお爺さんが一人で営業していました。最初に行った年のツアーのガイドさんがリンゴの幼なじみで、となりの家にずっと住んでいて、「あたしがリンゴに読み書きを教えたのよ」って。町に普通に「生き証人」がいる感じです。
 リバプールに初めて行くなら、8月後半のフェスティバルの時期がおすすめです。一年で一番高いですけど、一番安心して見られて楽しいイベントが盛り沢山です。
 ビートルズには、誰でも陽気にノッてしまう計り知れないパワーがありますよね。それを一人でも多く楽しんでもらえたらいいですね。

取材・文/佐藤義文

馬渕英将
ミュージシャン


1980年生まれ。横浜市立大学在学中、シルバービーツ(当時はシルバービート)のメンバーとして六本木キャヴァンクラブにてデビュー。年間1500回近くのステージをこなす。国内外のアーティストとの活動も多い。リバプールで開催される「ビートルズ・コンベンション」には2年連続で出場し、話題をさらう。ロックの殿堂マジソン・スクウェア・ガーデンにも出演。オリジナル曲の制作などソロ活動も展開中。
オフィシャルサイト(個人の日記も公開中) http://silverbeats.com/


面谷誠二

1.ギターやウクレレの先生でもある面谷さん。
2.はじめて買ったアルバムで、今でも一番好きという『ホワイト・アルバム』のホワイト盤。「これを見つけた時はうれしかった」。
3.『イエロー・サブマリン~ソングトラック~』のイエロー盤。「CDの時代になっても、アナログ盤も必ず出します。ビートルズはこんな遊び心も楽しい。やっぱりレコードが一番いいですね」。
4.「僕にとってのビートルズは日本編集のオデオン盤なんです」。後年自分で買った『HELP!(4人はアイドル)』。「はじめて聴いた時は、きれいな『イエスタデイ』の後に『ディジー・ミス・リジー』が入っていて、『何なんだこれは』と驚きました」。「『抱きしめたい』などのレコードに、リンゴ以外の3人の身長が5フィート11インチという解説が載っていて、僕は5月11日生まれで、それがすごく気に入っていたのが印象に残っています」。

 1994年、ロンドンのスタジオ事情を見ておこうと思って、スタジオをいくつか見た時、「レコーディングの下見」と称してアビイ・ロード・スタジオも見学したんです。本当なら「見学」では入れませんから、コーディネーターを通して。第2スタジオに入ってみると、写真で見た初期のレコーディング風景などとレイアウトがほぼ同じでした。ここで色々作業したんだなと、わくわくしましたね。
 ローリング・ストーンズが使ったオリンピック・スタジオのオフィスの窓から見た景色が、後の「フリー・アズ・ア・バード」のプロモーションビデオの中の、4人が屋根を見下ろしているシーンと同じでした。ありふれたロンドンの景色かもしれませんが、そういうちょっとした体験が後からフラッシュバックしてきます。
 ビートルズを聴いたのは、小学校3年生か4年生の時、兄の持っていた『HELP!(4人はアイドル)』をこっそり聴いたのが初体験でした。意識して聴くようになったのは、5年生くらいに、ひとつ上の先輩が「かっこいいのがある」と言って「レディ・マドンナ」のシングル盤のジャケットを見せてくれてからでした。それから「ヘイ・ジュード」のシングルを買い、『ホワイト・アルバム』を買いました。
 来日公演は親父と一緒にテレビで見てました。親父は「うるさい」と言ってましたね。僕もまだ音楽に興味を持っていなかったので、「わーわーきゃーきゃー言ってるな」という印象でした。
 ビートルズを聴きはじめるのとほぼ同時にギターを弾きはじめて、アマチュアバンドではディランやPPMなどとあわせてビートルズを何曲かコピーしていましたポールはコード進行がかっちりしていて、コードを鳴らすだけで成り立つけど、ジョンはコードを弾いただけではジョンの曲にならないのが演奏する上では難しいですね。
 ビートルズは水みたいなもので、それがないと生きていけないような存在です。何かあった時に、必ず1回リセットする場所。自分の感覚が鈍ってきたらビートルズを聴きます。1年に何度かふりかえる場所、ふるさとみたいなものです。

取材・文/佐藤義文

面谷誠二
プロデューサー


広島市出身。フリーのギタリストとして多くのアーティストのコンサートのサポートやレコーディングに参加。現在、トイズオフィスのプロデューサーとして活動中。主なプロデュース作品にIWAO「HAPPYDAY」など、辛島美登里『GREEN』など、ブレッド&バター『B.B.C.』ほか。現在、IMEHA、E KOMO MAIのリーダーとして活動中。E KOMO MAI は映画『全然大丈夫』の音楽を担当。(http://zenzenok.jp/)2008年4月10日には青山円形劇場にて笛吹奈保子と共演。
公式サイト http://www.toysmusic.com/


サエキけんぞう

1.お気に入りの写真集『MES ANNEES 60, tome 1』を手に。フランスの写真家ジャン=マリー・ペリエによる60年代の作品集で、ビートルズのポートレートも載っている。
2.1966年までのヒット曲を集めたベスト盤『オールディーズ』(未CD化)と『リボルバー』『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』。「小学校4年生でとにかく背伸びして聴いていたので、これは何なのだ?と、『ホワイト・アルバム』は道場のように聴き続けてました。初期の曲みたいに、楽しい〜と思いながら聴くのとは違うんです」

 僕の最初のグループ、ハルメンズに「昆虫群」という曲がありますが、今から考えると、ああいう曲は『リボルバー』にものすごく影響を受けてるわけです。当時聴いても「トゥモロー・ネバー・ノウズ」は異様な世界で、明らかに曲としてはみ出してます。反体制的なニュアンスで世の中に訴えかける、それがロックだという図式が小学生の頭のなかにもできあがってしまったんですね。それを聴いたうえで、『ホワイト・アルバム』の「レボリューション9」とかを小学生がくりかえし聴いてると、なにか外れた人間になっていくわけですよ(笑)。いつか過激なことをやるようになる宿命を、『リバルバー』と『ホワイト・アルバム』によって擦り込まれていた。思えば、ハルメンズみたいなニューウェイブに向かうのは、敷かれていたレールだったんです。
 イギリスにはだいたい用事で行くので、場所を偲ぶようなことはなかったんですが、リバプールの港やペニー・レイン、パブとか、彼らの育ったところには行きたいですね。
 やっぱり音で感動するので、伊豆田洋之さんが歌うポール・マッカートニーは鮮烈な体験でした。ビートルズ・ファンにとって意義が高いものになるのではないかと思って、ライブのプロデュースを買って出たんです。ポールの曲では小品が好きなんですが、甘さにサービスしすぎてる「マイ・ラヴ」も、伊豆田さんが歌うだけで好きになったし。余計なアレンジメントがなくてピアノだけでさっぱり歌うから、メロディの骨格を浮き立たせるんですね。ポールがそういうふうに演奏するのを聴く機会は0パーセント。だからこそ、みなさんに知ってほしいなあという気持ちもあります。僕にとって、「マイ・ラヴ」のような曲を好きになるのは価値観の転換なので、聖地を訪れるぐらい大きな体験なんですよ。
 今まで、ものごとを試行錯誤するときいつも、それはジョン的か?はたまたポール的なのか?という対比が指標となってきました。でもそれらは両方とも「英国的」です。さらに日本も含めたワールドワイドで何かを考えなければならないとき、フランスの人の我が道を行く感じは、人生感にとっても、ポップス感にとっても大変重要であることに気づきました。英VS仏の構図ですね。だから、ビートルズと同じように、僕にとってはフレンチ・ポップが大事なんです。
 フランス人にとっては最大の歌手であるクロード・フランソワのトリビュート・アルバムをこのたび作りました。彼のヒット曲「あのとき」をYMCKがカバーしたのですが、原詩に「ビートルズがデビューして、それはすごいもんだったけど、俺は俺の道を行くさ」というフレーズが出てきて、それを生かした日本語訳にしました。まさに、フレンチ・ポップのスタンスを現していると思いませんか。ビートルズは、こうしてちょっと離れて見るとまた、より多く発見があると思います。

取材・文/淡路和子

サエキけんぞう
ミュージシャン、作詞家、プロデューサー


1980年ハルメンズでデビュー後、パール兄弟を結成。プロデューサーとして「伊豆田洋之、ポール・マッカートニーを歌う」「セルジュ・ゲンスブール・トリビュート企画」なども手がける。著書にエッセイ集『さよなら!セブンティーズ』など。2008年にはパール兄弟の紙ジャケット・アルバム発売、クロード・フランソワ・トリビュート『クロクロ・メイド・イン・ジャパン』(4月2日/日仏発売)をプロデュース。
http://www.saekingdom.com/


星加ルミ子

1.ビートルズ初会見記を掲載した『ミュージック・ライフ』1965年8月号を手に。第2スタジオで4人と並んだ写真が表紙。「時間は最初30分と言われてましたが、レコーディングが終わっていたので3時間ほど話を聞いて。日本のことや、着ていった着物のこととか、後半は私のほうが聞かれてたかな」
2.ビートルズを表紙にした『ミュージック・ライフ』誌の数々。

 『ミュージック・ライフ』でビートルズの記事や写真を使いつくして、1965年に初めて取材旅行に行くことになりました。まずドイツのハンブルクで、スター・クラブやカイザーケラーとかビートルズが出演していたクラブを見てきました。パリでも何人か取材して、それからロンドンに行ったんです。ビートルズに会ったのはアビイ・ロードにあるEMIスタジオ。車で連れていってもらったんですが、セント・ジョンズ・ウッドという樹の生い茂った公園を抜けて。6月にしては寒かったんですけど、女の子たちが20人ぐらいたむろしていて、ビートルズが出てくるのを待ってるんですね。4人が乗ってきた車が停めてあったので「これがポールの車よ!」と教えてくれたり、日本から取材に来てこれからビートルズに会うんだと言うと、みんなうらやましがって「私が愛してるって伝えてね!」と口々に言ったり。
 その滞在中にリバプールにも行きました。ロンドンからプロペラ機に乗って。4人が育った家を訪ねたかったので、空港でタクシーの運転手に「ジョン・レノンの家に」と言ったら、「番地を言え」の一点張り。それでまずキャバーン・クラブに向かいました。女の子がたくさんいて、ビートルズの住んでいた家を聞いてみたら住所を書いてくれたんですよ。それを持って、タクシーで4軒をまわったんです。あとはジョンとジョージが通った小学校や、ネムズ(ブライアン・エプスタインのレコード店)の跡を見て、その日の夜にロンドンへ戻りました。当時は「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」も「ペニー・レイン」も出てませんでしたから。
 その頃はアビイ・ロードもまだ有名じゃなかったのね。69年に『アビイ・ロード』のジャケットを見たときは、こんなに広い道だったかなあと思いました。まわりを見るほどの余裕もなかったので。
 ロンドンのEMI本社は移転しましたが、昔あった場所にもう一度行ってみたいですね。ビートルズに会えるようにスタッフの人が尽力してくれた所ですし、そこからビートルズのいろんなことが始まったわけですから。

取材・文/淡路和子

星加ルミ子
音楽評論家


1961年に新興音楽出版社(現シンコーミュージック)に入社。『ミュージック・ライフ』誌の編集を手がけ、65年より75年まで編集長をつとめる。65年6月、日本のジャーナリストとして初めてビートルズとの単独会見に成功。著書に『ビートルズ・ロッキュメンタリー/太陽を追いかけて』など。2008年4月26日(土)、JTBカルチャーサロン新宿教室の特別講座「60年代黄金伝説」の講師を担当する。
JTBカルチャーサロン http://jtbculture.com/


稲垣潤一

1.「お宝と言えるようなものは持ってないけど…」と言って取り出したのは、中学2年の時に初めて買ったビートルズのアルバム『HELP!(4人はアイドル)』。このオデオン盤の裏ジャケットは、US盤に使用されたものと同じカラー写真。このアルバムに収録されている曲は全部好きだとのこと。もっとも、ビートルズに嫌いな曲はほとんどないとか。マーク・ルウィソーン著『ビートルズ/レコーディング・セッション』は、何月何日に録音して、マスタリングして…というのが全て書いてあるデータブック。レコーディングの方法論などを学べるだけでなく、「デビュー当時からトライ&エラーを繰り返して、あそこまで革新的なサウンドを創り上げたというのがわかる」という。「それにしても、よくこんなに記録していたなあ」と改めて感心。

 小学5年生の時。ラジオから流れてきた「Rock & Roll Music」を聴いて、一発で打ちのめされました。ひとことで言うなら「カッコイイ!」。当時、ビルボードの上位曲だとか、ブリティッシュ系のいろんなバンドの曲を流す番組がたくさんありましたが、その中でビートルズは特別な存在に聴こえてきたんですね。いま分析すれば、楽曲の良さとか、エッジのあるサウンドとか、いろいろと理由はあるけれど、小学生の時はそんなこと考えませんから。とにかく強烈な出会いでした。
 バンドを初めて組んだのは中学3年の時で、ビートルズもたくさんコピーしました。メンバーの一人の家をスタジオ代わりに、当時は譜面もろくにないから耳コピで練習しましたね。ビートルズが来日したときは武道館には行けなかったけれど、もちろんテレビでは観ました。動いているビートルズが観られる機会なんてそうそうないから、テレビに釘付けになりましたね。
 今でもビートルズは聴くし、ミュージシャン仲間と飲んだりする時も、ビートルズの話題はしょっちゅう出ますよ。『Let It Be...Naked』が発売されたときなんか、伊豆田(洋之)クンや杉(真理)クンと、オーケストラを除いたバージョンよりオリジナルの方がいいとか、これはこれで良さがあるんだ!とか…。
 ビートルズがどうして好きになったのかって考えると、やっぱりジョン・レノンのヴォーカルだったんですね、僕は。当時の日本の60年代の歌謡界にはいないタイプの、非常にメリハリのある歌。ビートルズのコピーをする人はたくさんいるけど、最終的にはあのヴォーカルが真似できないんですよね。ジョンとポールの声が混ざりあったときにビートルズの音楽が生まれたと思うんです。
 イギリスには行ったことがないんですよ。アメリカには何度も行っているんですが、ヨーロッパ圏はなぜか縁がないみたいで…(笑)。もしイギリスに行くことがあれば、リヴァプールのストロべリーフィールズやポールの生家とか、やっぱり観てみたいですね。

取材・文/相場晴雄 写真/田頭真理子

稲垣潤一
ミュージシャン


'53年生まれ。28歳の時に「雨のリグレット」でデビュー。「ドラマティック・レイン」('82)、「クリスマスキャロルの頃には」('92) 他、数々のヒットを送り出した日本を代表するAORシンガー。日本レコード大賞ほか受賞多数。'07年にはデビュー25周年を記念した初のDVD BOX「EDGE OF TIME」を発売。今年2月6日には、ユニバーサルミュージック移籍第2弾シングル「サヨナラからのメッセージ」をリリースした。
公式サイト http://www.j-inagaki.com/


26.jpg

1.現職に就いてから幾度か訪れたリバプール。水沢氏の思い出の品は同市の観光局スタッフから贈られた市制800年記念メダルだ。「リバプールは古くから芸術が盛んな街。リバプールでは、ビートルズは特別じゃなくて、近所に住んでいた少年が、世界のスターになったという身近な存在なんですよ」

 私がビートルズと出会ったのは20代の時。ベンチャーズ、プレスリーといったアメリカン・ポップスを体験した後に突如現れたのが彼らだったんです。鮮烈でしたね。音楽はもちろんですが、僕が何より驚いたのは、彼らがリバプールという街で暮らす友達同士だったり、顔見知りだったり、そんな4人が好きな音楽に取り組み、チャンスをつかんで世界に羽ばたいた、というストーリーですよ。
 私はもともと大成建設の社員で、4年半前に大成の文化事業として運営しているこのミュージアムに転籍しました。ですから普通のビートルズ・ファンでは済まされない、館長としてビートルズをより深く知らなきゃならなくなった(笑)。なんとなくビートルズの音楽が好きだった私にはとまどいもありましたが…。それはともかく、ジョンの生きざまを見るとね、ミュージシャンとしての偉大さというよりも、一人の男の生き方として、なかなかやるじゃないか、よく頑張ったじゃないか、といった印象を受けるんです。先にも話したように、私は有名になる前の彼らに興味があった。特にジョンですよね。彼の不遇な少年時代を知ると、ヨーコに惹かれる彼の気持ちが理解できる。つまりどこにでもいる普通の男なんだと。そんな男がビートルズとして頑張ったんだ、と。このミュージアムも、そんなジョンという男の一生を辿る構成になっていますから、来館者も見学後は「ジョンの人生と自分をダブらせた。自分だって頑張っているよなあ」って帰られる方が多いんですよ。
 私はね、夫婦や恋人同士、行き詰まりそうになったり喧嘩したり、また疲れた時にはジョン・レノン・ミュージアムにいらっしゃい、って勧めているんです。(水沢さん御自身は奥様連れで来館されることは?)え、私ですか? しょっちゅうですよ(笑)。いやね、元ゼネコン社員が畑違いの博物館館長を務めるというんで、妻が心配で時々見に来ているんですよ。差し入れ持参で(笑)。

取材・文/森澤郁夫

水沢順一
ジョン・レノン・ミュージアム館長


大成建設入社後、広告・宣伝、営業推進などの部署を経て現職。ビートルズをテーマにした博物館は、リバプールにあるビートルズ・ストーリーと、さいたま市のジョン・レノン・ミュージアムの2館のみ。海外からの来館者も多い。
ジョン・レノン・ミュージアム
http://www.taisei.co.jp/museum/


25.jpg

1.写真集「The Beatles in Rishikesh」。'68年のインドに滞在した時に撮り降ろされたもので、貴重なプライベートショットなども収められている。「これは僕がインドに行くきっかけの一つで、ジョージが心酔していたマハリシってグルの元にみんなを連れて行った時のもの。でもこのマハリシのせいで、彼らはいろいろ大変な目に遭うわけ。彼女にセクハラされたり(笑)。そういうのを知って見ると、ちょっと生々しいんだよね。メンバーのリラックスしてる写真とかさ。この時はそんなことになるなんて思ってないはずだから」

 大学に入ってから東京カリ~番長の前身のような活動を始めて、だんだんインドにも興味が沸いてきたんだけど、そのころ初めてビートルズとインドの関係を知ったんだよね。僕も含め、シタールの音をビートルズの曲で初めて聴いたって人はすごく多いでしょ? 圧倒的に好きなアルバムは「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」。ビートルズがインド音楽に受けた影響が一番いいかたちで出てると思う。でもシタールを使った曲ならアルバム「リボルバー」にある「Tomorrow Never Knows」、これは本当にカッコいい! ただね、シタールを最初に取り入れたのはジョージでしょ? でもこれは悲しいかなジョンの曲なんだよね。ジョージはインド音楽大好き! って感じをそのままやっちゃうんだけど、ジョンは違う。これはもう才能の差というか…。もし僕がジョージだったら、絶対にグレてるね(笑)。
 東京カリ~番長も4人組だから、誰が誰か考えたりするわけ。遠く及ばないけど料理センスのあるリーダーがポールで、僕はやっぱりジョージ。新しいものを見つけると没頭して独りで突っ走っちゃう。あとの2人はリンゴ、リンゴかな(笑)。ジョンの才能がないんだよね。もしジョンがいたら、すんごいことになると思う。カレーで世界を変えられるはず(笑)。
 シタールを使っている曲は、全部で7曲あると思うんだけど、それを追うだけでもちょっと傾向がわかっておもしろい。ジョージは素晴らしいんだよ。「Sgt. Pepper's~」が出来たのもきっかけはジョージ。「Tomorrow~」がカッコいいのもきっかけはジョージ。僕がインドに行くきっかけもジョージだからね。リヴァプールにも行ったけどとにかく寂しい街で、インドの方が断然楽しかった。もうジョージ万歳!(笑)

取材・文/野上瑠美子

水野仁輔
東京カリ~番長 調理主任


'99年に結成された男性4人組ユニット“東京カリ~番長”の調理主任。全国各地へ出張し、音楽やアートとの多彩なコラボイベントを開催している。昨年には、東京タワー内にある“東京カレーラボ”を小山薫堂氏と共同プロデュースし、話題を呼んだ。カレーに関する著書も多く、今年は夏までに4冊のカレー本を出版予定。
http://www.tokyocurrybancho.com/


24.jpg

1.ビートルズが使用したレコーディング機材などを詳しく紹介した本「Recording the Beatles」。「彼らのレコーディング風景を描いた絵コンテがあるんですけど、これがおもしろい! 最初は立ってレコーディングしてるのに、途中で座るようになり、服装もだらしくなくなり、最後はヨーコまで!(笑)」
2.上記の本の中身。卓のポスターやマイク型のしおり、ジョージ・マーティンが旅行先からビートルズ宛に書いたポストカードのコピーなど、気になるオマケも満載。
3.「りんごの子守唄」(詳細は右記)の赤盤、青盤、白盤。

 10歳の時の「Let It Be」のシングルとの出会い。これが決定的でしたね。中学に入った時には意志を固めて、全部の曲を聴こうと。リリースされてる枚数と自分のお小遣いを換算して、3年間で約40枚。とにかく3年間はそれだけを買おうと。もちろん楽しかったんですけど、高校に入った時には解放されたような気分に…。ビートルズ以外も聴いていいんだ!みたいな(笑)。ただ当時、ミュージシャンツリーを作って、それをいかに茂らせるかみたいなこともやっていたんです。そうやってビートルズを深く聴くことによって、ロックミュージックを聴いていく準備が完全に出来た気がしますね。
 メンバーの誰派で言うと、僕は圧倒的にポール派。だから語弊があるとなんだけど、「りんごの子守唄」ってシリーズをプロデュースした時も、ジョンやジョージの曲には僕が入っていく隙間があるんですよ。でもポールの曲は完全だから、ひれ伏してハハーってするしかない(笑)。まぁそういう届かない相手だからこそ、ずっと聴いていられるんだと思います。
 イギリスですか? もちろん行ったことないです(笑)。だって、もしアビイ・ロード・スタジオに行ってしまったら、僕が思っているアビイ・ロードの幻想が現実と比較されてしまうじゃないですか? こんなところかなぁと想像しつつ、アビイ・ロードみたいな音を東京で作ってみる。そういうことで、自分のスタンスが生まれると思うし。まぁでも、結局は行くでしょうね。だって、やっぱり行ってみたいじゃない?(笑)


取材・文/野上瑠美子

鈴木惣一朗
音楽家


ミュージシャン、音楽プロデューサー、音楽ライター、選曲家としてなど、幅広い活動を展開。近年ではビートルズ・ララバイ集「りんごの子守唄」シリーズをプロデュース。女性ボーカリストによる赤盤、男性ボーカリストによる青盤、男女混声デュエットによる白盤(ビデオアーツ・ミュージック/各¥2940)がある。
鈴木氏公式サイト http://www.quietone.net/
ビデオアーツ・ミュージック http://www.videoartsmusic.com/


23.jpg

1. ジョージ・ハリスンの邸宅前で感慨に浸る、漆畑氏。
2. 事務所の打ち合わせスペースには、ビートルズの関連アイテムが飾られている。知人のイラストレーターの個展で「これ気に入ったから譲ってと、商品でもないのに売ってもらった」というジョージ・ハリスンのイラストのほか、自身のバンド活動でジョージのライブ衣装を再現した写真なども。
3. 単行本『ホワイト・アルバム ネイキッド──グループ終焉の出発点』(扶桑社)では、ブックデザインも手掛ける。ジョージの曲が4曲収録された“ホワイトアルバム”は「もっとも好きなアルバム」とか。

 小学校6年生のとき、4歳年上の姉に連れられて行った映画『HELP!』は、当時の僕にはかなり刺激的でした。スクリーンにビートルズが登場するたび、女のコが「キャー!!」と嬌声をあげて手を振っている。その姉には、なぜかジョージ・ハリスンそっくりの友人がいたりして(笑)。そんなことがあってビートルズという存在を印象づけられたのかな。それ以来、彼らの曲を積極的に聴くようになりました。だから、好きになった“きっかけ”自体は音楽ではないんですよ(笑)。
 なかでも一番気になったのは、ジョージ。顔も名前も真っ先に覚えました。いま思えばビートルズのなかでは地味な印象で、曲やフレーズの引き出しも少ないような気が…。そのうえ、何だか自信もなさそう? でも、そこが何か共感できていいんです。僕の中の“日本人”が刺激されるのかな? どんどんジョージが好きになっていって、髪型なんかも真似するようになりました(笑)。
 当時一番聴いたのは、“ホワイトアルバム”ですね。新品となると2枚組のLPで4000円と高かったので、中学の頃、友だちの中古を1500円くらいで買ったんです。それでも中学生には高かったから一生懸命聴きましたよ。その頃やっと、誰がどの曲を作っているのかもわかるようになりました。
 いまも影響はありますね、精神的に。仕事を楽しんでやることができる。しかも、自分の好きなことで。そんなことを彼らから学んだのかもしれません。ありがたいことです。
 実は4年前に初めて、ジョージの自宅を訪ねて行ったんです。感慨深かったですね。ロンドンから電車で1時間半もかけて、家が近くなってくると心臓がドキドキ…。そのとき、頭の中では『Here Comes The Sun』が聞こえていたような気がします。日本人なんて誰もいないような、片田舎でね(笑)。

取材・文/高田純造

漆畑一己
アートディレクター


デザイン事務所「fab」代表。『Oggi』『Precious』『Domani』『STORY』などの女性誌から男性誌『Straight,』まで、品とこだわりのある大人向けの雑誌や単行本装丁のアートディレクション、グラフィックデザインを手掛ける。事務所名の由来は、ビートルズの当時の愛称“Fab Four”とジョージ・ハリスンの曲「When We Was Fab」から。また、自身が率いるバンドも活動中。FAB BAND代表。


22.jpg

1.‘97年に訪れたアビー・ロードにて。1人で撮影しようとしていたら、3人組の外国人観光客に、「ビートルズは4人グループだ。一緒に撮ろう!」と言われて実現したもの。この年の年賀状にも使用した思い出の一枚。「僕は判官贔屓の傾向がありまして、リンゴのファンなんですよ。リンゴなくしてはビートルズの成功はあり得なかった。ほかのメンバーと違って、リンゴはプロ・ドラマーとしてビートルズに加入したんですよ。ビートルズに嫌気がさして、最初に辞めたがったのもリンゴですよね。それをジョン始めメンバーが引き止めたことで最終的にアルバム『アビー・ロード』が制作できた。他にもリンゴは…」と語り止まぬリンゴ・ファンの重信氏は当然、前から2番目。
2.世界限定2000セットのWARUS CARD(10枚組み)。花札ぐらいの大きさの厚紙にメンバーの似顔絵が描かれている。19世紀のイギリスで、紙タバコの箱の補強のために入れられたのが始まり。

 僕は1961年生まれでしてね、ビートルズをリアル・タイムで追い掛けるのはちょっと無理だったんです(笑)。ビートルズを初めて聞いたのは解散直後でした。小学校の時、同級生のお兄さんから教えてもらったんです。
 「こんな音楽、聴いたことないや。何だ、これ!」
 子供ながら衝撃でしたね。それからというもの、学校の放送室に忍び込んでは設備してあるレコードプレーヤーで聴いたものです。  僕は特に『サージェント・ペパーズ~』以降の、当時最先端だったスタジオ・テクノロジーをふんだんに使った、作り込まれた作品が好きなんです。あんなことが出来たのは、当時十分に稼いでいて資金力があったビートルズだからだ、というのも確かですが、それより音楽に対する貪欲さと最新の音響技術を取り入れて使いこなす柔軟さがあったこと、そして何よりセルフ・プロデュース、つまり“自作自演”の能力が高かったからですよね。“自作自演”という言葉は今では珍しくも何ともないんですが、流行を取り入れた上できっちり自分たちの作品にする、ミュージシャンなら楽曲にするというのは、簡単なことじゃないですよ。最近では、宇多田ヒカルがビートルズ世代に注目されましたが、これは、そうした“自作自演”能力が高く評価されたという側面が少なくないと思うんです。
 ビートルズについての本の企画、ですか? ————うーん、難しいなあ(笑)。ビートルズについては一分野を成すぐらい出ていますよね。すでに出尽くしている気もしますが、僕も、やはり“誰も知らない、未公開エピソード”のようなものを柱に編集していくでしょうね。ポールとリンゴについては、これからもエピソードは“つくられる”わけですし…。67年来日公演のコースを彼ら——ポールとリンゴですが——と巡ってみるのも個人的には興味を抱きますね。来日公演の時、ビートルズは羽田空港と、武道館と、ヒルトン東京(後のキャピタル東急)しか見てない、ってのはよく聞く話ですからね。高度経済成長期の真っ只中だった当時と違って、今の東京は景気のピークを越え、倦怠とか頽廃といった時期をすっ飛ばして、“人間が生活する街”としては苦しい環境にある。その一方で、都市機能は発展を続け、世界中から“クールな街”として注目されている。そんな東京を案内しながら、彼らと一緒に67年を回顧する感傷的な企画も面白いかも知れません。
 そしてもしもビートルズが今も現役で活動を続けていたなら、どんな音楽をつくり出していただろうか。クールな東京をどんな形で音楽に取り入れていただろうか。そんな彼らを僕はファンとして認められただろうか、どうなのか——。と、考えるんです。そして、そんなことを考えていると、つくづく僕は、ビートルズが好きなんだなあ、って気づくんですよね(笑)。

取材・文/森澤郁夫

重信裕之
角川モバイル モバイルプラットフォーム推進本部、映像コンテンツ事業本部 統括プロデューサー


(株)リクルートを経て、(株)角川書店で『ニュータイプ』『ゲームウォーカー』『千葉ウォーカー』『東京ウォーカー』編集長を歴任後、2007年より現職。映画、音楽、映像番組など、携帯電話向けの総合エンターテインメント事業を展開する。「Animation Kobe」「日本ゲーム大賞」「東京ネットムービーフェスティバル」「AMDアワード」などの審査員も務めた。
http://www.kadokawa-mobile.co.jp/


21.jpg

1.井上さんの事務所にて。「WAR IS OVER!」の紙袋には、オノ・ヨーコのサインが。
2.イギリスで発売された初回盤「Please Please Me」。モノラル盤とステレオ盤の2種類が存在。
3.左がモノラル盤。右が、同じく初回盤ラベルのステレオ盤。「当時イギリスは、日本ほどステレオの設備が普及してなかったんです。だから圧倒的にモノラル盤をたくさん作った。モノラル盤は初回プレスが数千枚で、ステレオ盤はその10分の1くらい」。
4.「Abbey Road」のテスト盤ラベル。「本番のプレスに出す前のもので、たぶん10枚も作られていないと思う。本当の意味でのお宝です!」

 世界に数枚しかないテスト盤や初回盤、プレス違いなど、ビートルズのレコードは、今やなんでも持ってますけど、LPシングル合わせて数千枚ぐらいですかね。実は数えたことがないんですよ(笑)。初めて買ったのは高校に入ってから。ただ2年生のときには解散なので、「惜しいものがなくなるぞ」って感じでそこから遡って聴くように。さらに好きになると、動くビートルズも見たくなるわけです。それで「A Hard Day's Night」とか映画も観るようになって。そこにはもちろん、イギリスの風景も出てきますよね? 行ってみたいと思いますよね? で、行っちゃったんです(笑)。初めて行ったのが'83年なんですけど、今ではもう何回行ったか…。この風景をみんなに見せたいと思って、ツアーを実施したり。やはりストロベリー・フィールズやペニー・レーンはいいですし、あとはメンバーの家とか。特にポールとジョンの住んでいた家は、すでに永久保存が決まってるんですよ。子供のころの家だから、普通の家なんですけど。でもビートルズを好きな人だったら、誰でも何かしら感じるものがある場所だと思いますよ。
 僕らはビートルズとかロックは若者のものだと思ってたんですけど、そう思ってた僕たちがすでに若者じゃないんですよね(笑)。だからロックはもう、年寄りのものなんじゃないですか? クラシックに近いというか、ビートルズはロック界のモーツァルトなのかなと。メロディがよくて、軽快で、つい弾いてみたくなるのがビートルズ。その証拠に、ありとあらゆる人たちがビートルズのカバーをやってるじゃないですか? それだけ親しみやすくて、いい曲が多いんだと思うし。やっぱり、ビートルズはモーツァルトなんですよ!

取材・文/野上瑠美子

井上ジェイ
オアシス・オフィス代表取締役


ビートルズゆかりの地を巡るツアーや、イギリスで開催されるグラストンベリー・フェスティバルのツアー企画運営を行う。また、中古レコードの販売サイト"オアシスレコード"も運営。現在、本年中に発売予定のレコードにスポットを当てたビートルズ本を執筆しており、同「e-days」サイト内では、リバプールの紹介文も寄稿中。
オアシス・レコード http://www.oasis-records.com
オアシス・ツアー http://www.oasis-office.co.jp


20_new.jpg

1. 1963年、イギリス中に熱狂的なファンを生み、ビートルズ旋風を巻き起こした時代の直筆サイン。
2. 1964年ロンドンで開催されたイベント時に、報道関係者が直接貰ったという直筆サイン。プロモーションカードの“表側”にサインをしたものは極めて少ないそう。
3. 1965年、「Ticket To Ride」のプロモーション映像の撮影を行った、まさにそのときの直筆サイン。台本に書かれた貴重なものだ。
どれも非常に貴重な4人揃い書きの本物。年に何度も現地イギリスに足を運び、その時代を追い求め、確かめて手に入れたものばかり。数え切れない偽物が存在するというビートルズの直筆サインだが、本物は研究を重ねた人にしかわからない「匂いでわかる」と同氏は語る。

 活動期間自体はたった7~8年間に過ぎないのに、未だに影響を与え続けているのは、ビートルズが“文化”だからだと思うんですよ。それまで「若者は大人の言うことを聞いていればいい」という考え方が主流だった時代に、「若者でも、やりたいことをやりたいスタイルでやっていける」ということを証明したのがビートルズ。音楽だけではなく、ファッションや政治的な発言も色んな意味でビートルズがやり始めた。活動期間中、毎回違うものを提供し、常に裏切り続けた彼らは“優等生”どころか、すごくラディカルだったんです。
 イギリスに行くと感じるのは、彼らが歌っていたのは、本当に身近なものだったんだということ。子供の頃、遠い国のお伽噺のように感じていた「In My Life」に出てくる「よく憶えている場所がいくつもある…」という歌詞も、リバプールの街角のことを淡々と歌っていただけだったんだなとか。
 僕にとってビートルズは人生そのもの。ビートルズがなくなったら、自分自身が消えてしまうぐらいの存在です。僕らの世代は、生のビートルズを日本武道館で見られなかった。でも、ビートルズは現役世代だけのものではないと思います。彼らが“永遠”なのは何百万人、何千万人という人が語り継いでいるからこそ。切り口は様々だけれど、僕の場合は、彼らが創った文化の源になっている作品やアイテムなどを通じて、その魅力を語り継いでいきたい。ビートルズウイルスをばら撒いて、感染させるのが仕事のようなものですね(笑)。

取材・文/島影真奈美

本多康宏
「ビートルズ研究所」主宰


ビートルズ鑑定士。全世界に数人しかいないと言われる、責任鑑定ができる唯一の日本人。本物を求め、世界を駆け巡る。直筆モノの鑑定力は世界でも認められており、海外の競りでは同氏の動向を見て真似をする人が多いほど。お宝コレクション・ハウス「ビートルズ研究所」(℡03-3366-5661)主宰。


19.jpg

1.「ビートルズのTVCM解禁されれば、若いファンがどっと増えると思うんだけどなあ」。事務所には仕事関係の資料や、自身が最近始めたという楽器が並ぶ。最近購入したというフォスター(コクヨファニチャー)の椅子は、座りやすくてオススメだとか。
2.イギリスで手に入れた思い出の品々。アンティックマーケットで購入した「イエローサブマリン」の全頁カラーのペーパーバック初版本。同じくアンティックマーケットで購入した「イエローサブマリン」のCORGI製ミニカー。発売日にオックスフォード・サーカスのHMVで買ったビートルズ25年ぶりの新曲「Free As A bird」のシングル盤。

 僕が初めて買ったビートルズは、アルバム『アビイ・ロード』でした。このアルバム、B面ラストに「HER MAJESTY」っていう短い曲があるんですが、ひとつ手前の「THE END」が終わるとレコード針を上げていたんですよ。ですんで、“おまけ”に気づくまで2年もかかってしまった…(笑)。という思い出があります。
 ビートルズはリアルタイムでは体験できませんでしたが、1995年の復活プロジェクトの時期に、ちょうど本国イギリスに滞在していたんです。テレビでもドキュメンタリー番組「ビートルズ・アンソロジー」が放送されましてね、冗談じゃなく正座して見たものですよ。その年には、ビートルズ25年ぶりの新曲「Free As A bird」も発売されました。これはジョン・レノンが生前作って声を残していたものに、ポール、ジョージ、リンゴが音を被せて出来たものなんです。リアルタイムの彼らを知らない僕には感動もので、涙と共に聴いていました。
 1995年は、ブラーやオアシスの台頭でブリット・ポップが世界的に注目されたり、「英国の寅さん=ジェームス・ボンド」シリーズが9年ぶりに復活したりと、不況が続いていたイギリスが復活を遂げたメモリアル・イヤーだったと思います。  ビートルズにおいては、グループ解散後もさまざまな企画が発表されていますが、最近のものではアルバム『LOVE』が秀逸です。これは昔の音源を解体して、トラックごとに手入れして再構築しているんです。リマスタリングとは違って、ひとつずつ取り出して音を磨き上げたわけですから、音が大変クリアなんですよ。時代の隔たりを感じさせない。許されることなら、全アルバムでこれをやってもらいたいなあ。
 笑い話ですが、ビートルズのフォロアーは今のミュージシャンも多くいて、オアシスもそのうちの1つなんですが、「ビートルズってオアシスに似てるね」という若いファンが少なくないんですよ(笑)。いずれにしてもビートルズは、今もなお新しいファンを増やしている。フレーズが錆びない。飽きが来ないから引き継がれていくんでしょうね。

取材・文/森澤郁夫

石角隆行
パブリシスト、有限会社六角堂・代表


キティレコード(現ユニバーサルミュージック)、ロンドン遊学を経て、有限会社六角堂を設立。2005年のクイーン再結成以降、EMI JAPANのクイーン公式サイト内での原稿、CD、DVD内のライナーノーツを担当。今年6月、高校野球の応援曲を集めたCD『ブラバン!甲子園』をプロデュース。オリコン最高8位、10万枚を超える大ヒットとなり、2007年日本レコード大賞企画賞を受賞。'08年2月には春のセンバツ高校野球に合わせて第2弾を発売予定。
http://www.universalmusicworld.jp/va/brath_band/


18.jpg

1.ビートルズのアルバム「Abbey Road」と、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのアルバム「THE ABBEY ROAD E.P.」。レッチリが'88年に発表したEP盤で、多くのパロディ作品が存在するビートルズの中でも特に有名な1枚。「決して自分の中ではビートルズだけじゃないっていうのがあって。はっきり言ってどっちのバンドに影響受けたかって言ったら、僕はレッチリの方ですからね(笑)。だからレッチリってバンドがこうあるんだっていうのが、やっぱりビートルズの偉大さなのかなって感じるんですよ」と田中氏。

 音楽に興味を持ち始めたころ、僕の場合パンクっぽいムーブメントから入っていったんですね。クラッシュとか、セックス・ピストルズとか。だからビートルズ=イギリスって感じは特にないんですよ。ただ全体的にイギリス寄りなものが好きで、シャープというか、クールな感じというか。アメリカにはない、イギリスの繊細さみたいなものに惹かれますね。
 パンクが好きだったので、僕の考え方としては、イエス、ノーで言うところの否定的なところから始まってるんです。でも歳を重ねていくごとに、否定したり壊したりするだけでなく、作り上げていくことが大事なんじゃないかって意識に変わってきて…。それから、そんなに興味のなかったビートルズのことが、すごく理解できるようになってる自分がいたというか。ビートルズって開拓してきた人だし、そういう部分ではやっぱりすごいなと思いますし、だから曲どうこうっていうよりは、彼らの生き方的な部分に共鳴しますね。
 “自分”っていうのは、自然と出来るものじゃないですか。いちいち何かをインプットしていくのではなく、なんとなく形にすることで浮き出てくるというか。何かが刺激になったり、教えてもらったことはあるにしろ、最終的にはそれを消化して自分なりのスタイルを作っていかないとダメなんですよね。で、そこには今まで聴いてきた音楽だったり、中にはビートルズもあったなと。そういう意味では、ビートルズっていうのは僕にとって空気みたいな存在なんですよね。

取材・文/野上瑠美子

田中 了
ファッションデザイナー


'97年「S.T.A.F.」スタートをし、03-04年AWよりコレクションライン“SATORU TANAKA”を発表。05-06秋冬より「BOYCOTT」クリエイティブディレクターに就任。07-08AWより、“POLITELY SATORUTANAKA”を立ち上げ、'08年1月には、恵比寿・アメリカ橋に会員制VIPサロンをオープンする。
http://www.satorutanaka.net/


17.jpg

1.古今東西の恋愛詩を読み解く著書『愛詩てる。』(実業之日本社刊)では、日本発表時にノルウェイの森と訳されたNorwegian woodはノルウェイ産の木(木製家具)だという誤訳話から詩の内容を紐解き、情緒的かつイギリス独特の乾いたユーモアを秘める歌の魅力を紹介。こちらは今年の11月に『リンボウ先生の日本の恋歌』(集英社刊)として文庫化になったが、残念ながらビートルズのエッセイは許可が下りず削除。英国恋愛詩の訳詩集『新海潮音』(駿台曜曜社刊)では「Yseterday」の訳詩を掲載。

 「Please Please Me」など初期の頃のビートルズは、結構荒っぽい。ハーモニーもあまり正確ではないところがあって、ちょっとスコットランドのバグパイプ風です。バグパイプは上がどんなメロディでも下の音がブー・ブーと常に一定で、ある意味ハーモニーが狂っている。そういう理屈に合っていないハーモニーがビートルズにもあって、独特の魅力がありますね。おそらくイギリス人じゃないと考え付かなかったんじゃないかな。賛否両論を受けながら常に自己革新を続けてきたのがビートルズなんですよね、そういうグループって他にはいない。初期の頃の単純なロックンロールを歌っている時代から、「Michelle」みたいなバラードになって、「Let It Be」あたりから哲学的な内容になって…。次々と新境地を開くので「今度のビートルズは全く違うぞ!」って常においてきぼり。追いかけるのに精一杯でしたよ。
 ビートルズの歌詞は後半になると特に哲学的な内容で、どういう意味なんだろうと考えさせられるものが多い。難解で謎も多いけれど、すごく詩的で状況が思い浮かんでくるところに惹かれますね。例えば「The Long and Winding Road」。リアルタイムで聞いていた中高生の頃は文字通り“長く曲がりくねった道”=“難しい恋心”を意味しているのかと思っていた。でもイギリスを訪れた後に聞くと、イギリスの田園の細く曲がりくねった緑の小道が、ふと思い浮かんでくる。ひとつの歌詞に美しい実景が二重うつしになっているんです。40代になって『ビートルズ全詩集』が発売されたときは、じっくり読みましたよ。僕の著書で誤訳を解説したぐらい(笑)。ビートルズの詩は、その時代の若者だけにうける内容ではなく、人間の存在に対するメッセージが含まれているから、文学の域に達しているんです。だからこそ、今もなお人気が続き、誰の心にも響く音楽性があるのでしょうね。

取材・文/嶺月香里 写真/田頭真理子

林 望
作家・書誌学者


中学の頃、ビートルズファンに。35歳でイギリスに渡り、英国に興味を持つ。『イギリスはおいしい』で日本エッセイストクラブ賞、『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』で国際交流奨励賞を受賞。JR東海社歌の作詩を手がけるなど、詩人としても活躍している。


016.jpg

1.「僕もポールと写真を撮ったのに、僕の分は送られて来ずじまい。撮影はポール側のカメラマンだから請求もできない…」と嘆く森川社長だが、山崎まさよしさんとポールとの2ショットは「宝物です」とのこと。
2.ポールのサイン入りのビートルズ来日公演チケット。本人に会うまではアルバムに貼られていて、裏面にはテープの糊が付いたまま。帰国後、ちゃんとフレームに入れようとした額装店で、「糊を剥がしていいですか?」と聞かれ、「ダメ!」と止めたら不審そうな顔をされたとか。「まぁ、この糊にポールの指紋や細胞が付いているとは思わないでしょうから(笑)」。

 小学校5年生の終わり頃、1964年1月にラジオから流れてきた“妙な音楽=ビートルズ”に惹かれてから、彼らのことを考えない日はこれまで1日もありませんでした。’66年の来日公演は、通っていた中学校で「行ってはならん」というお達しが出たけれど、お構いなし。数百枚の往復葉書を書きまくって、抽選を引き当てました。その当選葉書を持ってプレイガイドに並ぶのは学校が終わってからだから、席は武道館の3階の最後列でしたが、レコードとの違いまでよく聞こえましたね。ただそのときは36年後に、そのチケットにポール・マッカートニーからサインを貰えるとは夢にも…。
 2002年、ポールの来日公演直前に、テレビで来日記念企画が持ち上がり、ウチの山崎まさよしがボストンまでポールと対談をしに行ったんです。会った瞬間、緊張しまくる山崎に向かって「C’mon! MASA!」と呼んでくれたうえに、山崎がカバーした「ALL MY LOVING」も一緒に歌ってくれた。僕も緊張しっぱなしで、その晩は山崎と2人してグッタリ。思えば小学校5年から数十年、長い道のりでした(笑)。
 実は、それまでもビートルズ周辺の人に会うことはあったし、アビイ・ロード・スタジオでレコーディングしたこともあったんです。多くの楽曲が録音されたNo.2スタジオではなかったけれど、『REVOLVER』で使われたNo.3スタジオでのレコーディングは感無量でした。理由? やってみたかったから(笑)。観光だとスタジオ内には入れないですしね。

取材・文/松浦達也

森川欣信
オフィスオーガスタ代表取締役


'52年生まれ。山崎まさよし、スガシカオ、元ちとせ、杏子、スキマスイッチなどを擁する、音楽制作プロダクションのトップ。2002年には自社レーベル「オーガスタレコード」を設立。毎年夏には、所属アーティストによる大型野外イベント「オーガスタキャンプ」を開催している。 http://www.office-augusta.com/


015.jpg

1.マキノ氏が手にしているのは「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」。帯には“オール最新曲、イギリスと同時発売!!”の文字が。「まだこのアルバムがむやみに神格化されてない時のもの。最初のウリはこれかよ?って(笑)」。
2.イギリス旅行の際に購入。ビートルズのシングルコレクションボックスで、ジャケットはイギリスオリジナルのもの。
3.同じくイギリスで購入し、マキノ氏が「世界で最もカッコいい!」と言う“リッケンバッカー”のギターフィギュア。これを見ているうちにどうしても本物が欲しくなり、最近購入したそうだ。

 ビートルズゆかりの地には行きたいと思ってたんだけど、20、30代ではついに果たさず。そしたら40歳半ばになって、番組の取材で行けることになったんだよね。で、初ロンドンの初日に行ったのがアビイ・ロード。もうものすごいはしゃいじゃって(笑)。リバプールにも行ったんだけど、彼らがここで生まれ育ったんだなぁなんて思うと、なんかキュンとしたというか…。あとあの街の距離感がいいんだよね。伝説ではマネージャーのブライアン・エプスタインとビートルズの出会いって、彼らの噂を聞いたブライアンが、一大決心してライブに行くって感じじゃない? でも実際に行くと、彼の店からライブをやってたキャバーン・クラブまで、歩いて5分くらいなんだよ。ならすぐ行けよって近さで(笑)。それは行かないとわからなかったことだし、こんな小さな街の狭い一角で起こった出来事が、世界的なムーブメントになったんだなって思うと、ちょっと切ない気持ちになったりしてね。
 ビートルズを聴き始めたのは中学1年生の時。解散の1、2年後でちょっとしたブームだったのと、とにかく英語の歌を聴くってことが大人への第一歩のような気がして。「昨日までの自分よ、さようなら」みたいな(笑)。だからすごく大人になりたい時期に、ちょうどお手本としてあった存在なんだよね。でもそれは、今でもそうかもしれない。自分が20代になった時はああなりたいと思ったし、30代になった時もそう。だから僕にとってビートルズは、人生の師なんだよね。

取材・文/野上瑠美子 写真/加藤孝(人物)

マキノノゾミ
劇作家・演出家、劇団M.O.P.主宰


'84年に“劇団M.O.P.”を旗揚げ。演出を手掛ける舞台「夢のひと」が、'08年1/9(水)~14(月)東京・サンシャイン劇場にて上演。また4月には音楽劇「ぼんち」の演出を、10月には舞台「女ひとり」の脚本・演出も手掛ける。
劇団HP http://www.g-mop.com/
マキノ氏ブログ http://mopmakino.exblog.jp/
オフィス・マキノ http://www.officemakino.com/


014.jpg

1.浅井慎平の「気分はビートルズ」。ビートルズ初来日時の写真とエッセイからなる。橋本氏が「ビートルズのレコード以上に自分を救ってくれる、これ以上自分の肌に合うものはない」と確信するほど思い入れの深い一冊。古本屋で見つける度に誰かにプレゼントしていると言う。
2.橋本氏が40歳記念に手掛けたコンピレーション「ラヴ・ソング・フォー・マイ・ハート」と「カフェ・アプレミディ・クリスマス」。それぞれの1曲目に、ジョンの「Woman」とポールの「Wonderful Christmas Time」を収録。
3.ナンド・ローリアの「If I Fell」収録盤。

 自分が選曲の仕事をするようになってからは、いろんなカバーバージョンを聴くのが楽しみの一つなんです。中でも一番気に入っているのが、哀愁ブラジリアン・ジャズのナンド・ローリアの「If I Fell」のカバー。これが死ぬほど好きなんですよ。僕のイベントに来てくれてる若いリスナーだと、こっちがオリジナルだって思ってるんじゃないかと思うくらい、しつこくかけてて(笑)。で、改めてオリジナルを聴くと、たまらなくいいなと思いますし。これもきっかけの一つなんですが、自分が40歳を迎えたということが、再びビートルズを聴く伏線になった気がしますね。ジョンが40歳で亡くなって、自分はそれより年上になるんだなって。自分のルーツに戻るじゃないですけど、ビートルズに対する自分なりの意識が、40歳になってまた高まってきたと思います。
 リバプールと言うと、ビートルズと共に、高校生のころから世界一好きなバンド“ペイル・ファウンテンズ”が生まれた街ってイメージが強くて。だから街の風景を思い浮かべるだけで心疼きますね。“リバプールサウンズ”と括られるところの胸をつくメロディと、いさぎよい疾走感に惹かれるというか。だからあの街に対する憧れは、とても強いんです。
 「好きな音楽は何ですか?」って聞かれる度に、必ず挙げるグループはやっぱりビートルズ。もっとマニアックな答えを求める方もいますけど、僕の中では“やっぱり”っていう存在で…。好きなもののストライクゾーンなんですよね。

取材・文/野上瑠美子

橋本徹
SUBURBIA


サバービア・ファクトリー主宰。編集者、選曲家、DJ、店舗プロデューサー。渋谷・公園通りのカフェ・アプレミディ/アプレミディ・グラン・クリュ/アプレミディ・セレソン店主。これまで選曲を手掛けたコンピCDは180枚以上に及ぶ。
http://www.apres-midi.biz/


013.jpg

1.CUELのイベント向けに作ったレシピ本。レコードジャケットからイメージをもらって表紙をデザインしたんだけれど、あまり似ていないといわれちゃうんです(笑)。
2.Tシャツはなくなってしまったけれど、コンサートなどでコツコツと買い集めた缶バッチはいまだに捨てられない。リンゴスターのキーホルダーとか、今でも通じるような洒落たデザインですよね。

 23才の頃、ジョン・レノンが亡くなったときは、これからどうしよう…と途方にくれてしまいましたね。中学1年生の頃から好きで、衣食はもちろんすべてに影響を受けていていたんです。ジョンの最初の結婚式にトライフルが出ていたという記事を見れば自分で作ってみたり、自然食やスパイスに夢中になったり。自分がどうこうしようと考えなくてもビートルズが発信する情報についていけばよかったんですもの。ジョンが亡くなった当時はインテリアスタイリストをしていましたが、今のままではいけないって強く思い、もっとコミュニケーションに関わることをしようと、8ヵ月後にはケータリングの会社を興していました。それから25年ずっと続けていますが、仕事を始めるきっかけはジョン・レノン。余談ですが、命日には必ずビートルズのTシャツを着ていたんですよ、ついに着倒してなくなっちゃったけど(笑)。今でも誕生日には必ずケーキを食べています、もちろん4人全員。もう40年も続けているので、もはやイベントというより習慣になってますね(笑)。
 昔は料理って、洋服や音楽に比べて流行から一歩も二歩も遅れていたの。私には常に音楽があったから、それを料理に表現しよう、時代を盛り込もうって作ってきたのが私なりのレシピ。自分にとってロックはカレーなんです(笑)。ビートルズはイギリス人だけれどもインドとかNYとかさまざまな国の要素を取り入れていますよね、料理も伝統的な作り方だけじゃなく、世界の中からミックスすればいいんだって教えてもらいました。私にとって、ビートルズ=イギリスではなく、「イギリスと世界のミックス」なんです。彼らが自分で選んだ土地の方がらしいっていうか、どちらかというとイギリスからはじかれたイメージ。でも、だからこそいいものが作れたんじゃないかな。

取材・文/嶺月香里

ハギワラトシコ
CUEL代表・料理研究家


食べることを中心に生活の楽しさを追及するユニット「CUEL」を主催。フォーマルからアーティスティックなイベントまで様々なパーティ料理のケータリングを行いつつ、料理本制作やイラストも手がける。『ハギワラトシコのヒーリングクッキング』(文化出版局刊)、『映画を食卓に連れて帰ろう』(同文書院刊)など著書多数。
http://www.cuel.co.jp


012.jpg

1. ショーン・レノンも来店したという店内にはビートルズ関連の写真やグッズに加えて、親交のあるアーティストの楽器やアンプが山と積まれている。人形4体は、「ジョンの足跡を辿るため」に23年前に行ったニューヨークで手に入れたもの。また、WURLITZER製の真空管ジュークボックスは完動品。日本に3台しかなく、「買った後に、ジョン・レノンも同じものを持っていたという話を聞いて運命を感じた」とのこと。
2. ジョン・レノンの巨大な肖像のほか、店内にはレプリカペイントのギターや、武道館公演のチケットなども展示されている。

 僕がビートルズに初めて触れたのは、小学校6年生頃。ちょうどイギリスでデビューした頃ですね。「ラジオと言えばFEN」という母親のおかげでいつも、家庭では洋楽が流れていたんです。それまでも、チャック・ベリーやエルビス・プレスリーを聴く、少しませた小学生でしたが、初めて聞くビートルズは衝撃的でした。ロックでありながら、キャッチーでポップ。リズムもメロディも、それまでに聴いていた音楽とは明らかに異質でした。当時は日本デビュー前だったから、知っている人がいなくてね。その後、中学時代に人気が出たときには、ちょっとした優越感もありました(笑)。
 もちろん、バンドもやりたかったけれど、当時のエレキギターは高かったから、フォークギターで“ひとりビートルズ”(笑)。よくコピーしたのは「TICKET TO RIDE」や「CAN'T BUY ME LOVE」あたり。初めてのバンドは、大学入学後。バイト代で買った3万円のTOKAIのストラトモデルで、仲間と音を出す楽しみを覚えましたね。もっとも、すぐに挫折して、アーティストを応援する側に回ることになったけれど。
 イギリスに行くなら、やはりリバプールがいいのでは? 僕が行ったときは、史跡巡りのようにアビイ・ロード・スタジオなどを回ったけれど、個人的には武道館公演のほうが「いま、ジョンと同じ空気を吸っている」という印象は強かったような気がします。抽選用の葉書を一生懸命書いたかいがありました。書いた枚数ですか? 200枚です(笑)。

取材・文/松浦達也

小川武志
ライブハウス「Lantern」オーナー


'50年生まれ。'74年、東京・渋谷にライブハウス「ランタン」を開店させる。「相手の音が聞こえる4ピースバンドだからこそできるコミュニケーションを、若い世代に伝えたい」と、バンド活動を通じての“音育”も試みている。毎週水曜日はビートルズセッションデイ。
http://lantern.web.infoseek.co.jp/


011.jpg

1.2.Beatles BE@RBRICKの100%&400%の2体セット。高さは100%が7cm、400%が28cm。それぞれ表側にはビートルズのロゴが、裏側にはアップルマークがプリントされており、同柄の箱に入っている。“Fabrica”という高井氏と本広克行氏の演劇ユニットで公演を行った際、その打ち上げのゲームで高井氏が手に入れた。Fabricaに出演しているムロツヨシ氏が、BE@RBRICKを出しているメディコム・トイ社に所属しているため、ほかにも多くのBE@RBRICKが景品として出されていたが、高井氏は迷わずこれを選んだ。

 ビートルズを聴き始めたのは、高校生の時。当時付き合っていた男の子がすごく好きで、その影響で聴くようになりました。家でもビートルズだし、車の中でもビートルズ、彼がギターを練習するのもビートルズって感じで、もはや洗脳されてましたね(笑)。最初はポール派で、特に「The Long And Winding Road」って曲が好きだったんです。でも彼がジョン派だったので、だんだんジョン派に…。彼の影響が本当大きかったんですよ。もしビートルズがいなかったら…、今こんなに洋楽を聴いてなかったかもしれないですし、あの出会いが音楽的に影響を受け始めたきっかけかなぁと。イギリスには行ったことがないんですけど、「アビイ・ロード」のジャケットはすごく好きなので、いつかは行ってみたいですね。
 “ENBUゼミナール”という演劇界を目指す若い人たち向けのゼミで講師をしているんですが、最後に卒業公演というものをやるんですね。そのために書いた作品が、「トゥモローネバーノウズ」。もちろんビートルズの曲からつけたタイトルなんですけど、若い人たちにはMr.Childrenの曲だと思われたみたいで…(苦笑)。このタイトルにしたのは、やはり若い人が多いので、明日のことなんて誰にもどうなるかわかんないんだよっていうメッセージを込めて。彼らを見ていると、過剰な不安と少しの自信で日々過ごしているなっていうのをすごく感じるんですね。そんな彼らに、この作品、このタイトルから、何かを感じてもらいたいと思ったんです。

取材・文/野上瑠美子

高井浩子
作・演出家


'95年に劇団“東京タンバリン”を立ち上げ。すべての作品の作・演出を手掛ける。生まれはビートルズ初来日の年。'08年6/27(金)~7/6(日)、東京タンバリンの新作(タイトル未定)を三鷹市芸術文化センターにて上演。同劇場で毎年上演されている、「太宰治をモチーフにした演劇」シリーズの第5弾。
http://tanbarin.sunnyday.jp/


010.jpg

1. 悩める若者たちに対し、“決してひとりぼっちにしない音楽”を紹介している自身の店舗に必ず置いてあるビートルズのレコード。店内には往年のロックミュージシャンたちのポスターがズラリと貼られており、常時彼がDJをしている。「ビートルズって、冬になると聴きたくなりますよね。ロンドンのイメージからなんでしょうね」とのこと。
2. 併設されたカフェには、庄司さんらスタッフの愛読書をノンジャンルで置く本棚がある。これはそのなかの1冊で、ジョンの伝記的写真集『イマジン:ジョン・レノン』。その他、DVD『ザ・ビートルズ・アンソロジー』も。

 僕は“若者文化屋”という名目で、レコード店とカフェを併設した店舗を経営しています。その信条が「ビートルズみたいな若者に来てほしい」なんですね。それは“イイ感じの若者”ではなく、“感じのイイ若者”。例えば、家にイギー・ポップを連れて来たら母親に怒られそうだけれど、彼らなら好かれそうじゃないですか(笑)?
 イギリスには買い付けで2年前に初めて行きました。典型的な音楽オタクでロンドンに憧れていただけに、正直拍子抜けしたんですよね。都市部はそれこそ渋谷にいるのと同じ感覚だったから。ただ、夜ひとりでパブに出掛けて、ビートルズが流れてきた瞬間は感動しました。その後“ココだけは!”という思いで、アビイ・ロードに行ったんです。そうしたら、モッズコートにモジャモジャ頭だった僕の風貌が珍しかったのか、「ここで一緒に写真を撮ってくれ!」と逆に現地の人たちの人気者になってしまって…。「憧れのアビイ・ロードでオレ、何をやってるんだ?」という苦い思い出です(笑)。
 “毎日が戦争”みたいな状況にある今を生きていると、他人に何を言われようとも気にせず、絶対的にシンプルだったジョンの生き方を羨ましく思います。普通に人間臭くて、大スターなのにウチの母親にまで好かれてしまいそうな、その小気味良さ。実際には7年間の活動で様々な紆余曲折があったわけだけれど、彼らのそんな存在感こそが、僕のなかで人生におけるひとつの理想の基準になっているのです。

取材・文/小堀真子(バイオレンジ)

庄司信也
Youth Recordsオーナー・総合司会


'78年生まれ。ファッションブランド「ミスターハリウッド」のプレスを経た後独立、原宿に現在の店舗を構える。日々店頭に立ちながら、音楽や映画など様々な分野でデザイン・執筆活動なども行っている。カフェ「KITCHEN Waltz」を併設した店舗の情報はHPにて。
http://www.youthrecords.com


009.jpg

1. 1990年にシンコー・ミュージックより出版された『ビートルズ全詩集』。「モノに対する執着というのがないので、関連グッズなどはほぼ持っていません。ただこれは、僕のデスクにいつも入れてある。仕事場を引っ越してもこれだけは必ず側に置いておくんです」。パラパラとめくり、何気ないフレーズを発見しては、仕事や日々の生き方についてのインスピレーションを得る。
2. 「見開き単位で、左側が英語詩、右側が日本語訳になっている構成や印刷の雰囲気もいい。買ってから20年来、ずっと読んでいます」と語る。

 出会いは小学校2年生。それが音楽や海外のカルチャーそのものとの出会いでもありました。その後はスピーカーに耳を突っ込むようにして聴いたし、辞書で歌詞の意味まで調べました。おかげで中学の英語の授業が楽でしたよ(笑)。音としての良し悪しだけでなく、もう自分のベースにあるものなんですよ、ビートルズって。
 僕は過去にゲームソフトを作ったとき、そのサウンドをアビイ・ロードでレコーディングしているんです。マイケル・ナイマンを6時間かけて口説いてね(笑)。スタジオはビートルズで知っていたからアビイ・ロード。もうそれだけ(笑)。他にもいい所はあるのでしょうけれど。アビイ・ロードって実は料金も安いんです。何より、そこでやれば、何か魔法のようなことが起こるんじゃないかって気がして。
 最近、僕の周りの多くのクリエイターがロンドンの好景気に注目していて、続々と現地に飛んでいます。UKってやっぱりクリエイティブだから。アイドルの曲でも歌詞が良かったり、若者が政治にちゃんと意見を持っていたり、日本で育った僕とはまったく違う文化がそこにあるわけです。なかでも、影響を受けたのはポール。人と意見が対立しても、「そういう考えもあるね」ってポジティブに解釈するところは、間違いなく彼の影響です。もう死ぬまでには絶対、彼に会いたい。「何とかこっそり会えないかなぁ」って、僕は昔からずっとそのルートを模索していますからね(笑)。

取材・文/小堀真子(バイオレンジ)

飯野賢治
フロムイエロートゥオレンジ代表取締役・ゲームクリエイター


'70年生まれ。24歳で「ワープ」を設立。『Dの食卓』や『エネミー・ゼロ』といった家庭用ゲームソフトを全世界で発売し、独自性ある企画やマーケティングがゲーム業界という枠を越えて大きな話題を集めた。現在は消費者向けサービスを中心に企画・インターフェイス設計・ブランド開発等を精力的に行う。


008.jpg

1.成井氏が作・演出を手掛けた舞台「ミスター・ムーンライト(月光旅人)」のチラシ、台本、DVD(右記サイトより購入可能)。作品名はもちろん、ビートルズの曲のタイトルからつけられたもの。少女の心が男の体に乗り移るという物語で、男の肉体を月、中に入った少女の魂を太陽に見立てることで、独自の"Mr. Moonlight"を表現した。成井氏は「ビートルズの曲はタイトルそのものが一つの詩になっており、そこからいろいろなことをインスパイアさせてくれる」と語る。

 音楽にはまったく興味がないんです。でも唯一ファンと言えるのが、ビートルズ。まず初期にハマッて、アルバムを全部聴くようになってから後期が好きになり、結局は中期だよなって(笑)。彼らの何が好きかって、とにかくメロディなんですよね。僕の芝居でも、使う音楽の決め手になるのはやっぱりメロディだし。なんか、作品の中で音楽が単なる効果音になるのがイヤなんですよね。メロディが登場人物の心情を助けるというか、登場人物と音楽が共演するというか…。だからつい作曲家に、「ビートルズのあの曲みたいなの作ってよ」なんて言っちゃうんですけど、ビートルズよりいい曲なんて出来るわけないじゃないですか?(笑) だから作曲家からすると迷惑だろうなぁと。でも普段音楽を聴かない人間がそういうところにこだわっちゃうのって、本当ビートルズのせいだと思うんですよね。ビートルズがあんなにすごいメロディメイカーだったから、「音楽はメロディだぞ!」ってビートルズが僕を洗脳してしまったんです(笑)。
 ロンドンには’93年に行きました。でも芝居ばかり観ていたので、ビートルズゆかりの地には結局行けず…。ただ感じたのは、不思議とすぐに馴染めたんですよね、イギリスに。日本と同じ島国のせいか、ちょっとこじんまりした印象があって。それはすごく好感がもてましたし、今度行く機会があれば、ぜひリバプールまでも足を伸ばしたいですね。

取材・文/野上瑠美子

成井 豊
作・演出家、演劇集団キャラメルボックス所属


85年に"演劇集団キャラメルボックス"を旗揚げ。ほぼ全作品の作・演出を手掛ける。’08年2/28(木)~4/7(月)、舞台「きみがいた時間 ぼくのいく時間」を東京・サンシャイン劇場にて上演(ほか地方公演あり)。3年ぶりに上川隆也が劇団作品に出演するのも話題に。
http://www.caramelbox.com/


007.jpg

1. 奥田祐士氏。僕が中学3年当時、ビートルズの訳詞集には岩谷宏さんの自由訳と片岡義夫さんの直訳の2種類があったんです。岩谷さんが訳した「エリーナ・リグビー」は、東京のOLの話になっていたりして、それはそれでおもしろかったんですが、ちょっとやりすぎな感じもした。いっぽう片岡さんのは完全な直訳調。その中間をいけないかと思って、我流で歌詞を訳し始めたのが、今の仕事につながっています。
2.奥田さんが手掛けた本の一部。『ザ・ビートルズ・サウンド 最後の真実』(白夜書房)。EMIアビー・ロード・スタジオのエンジニアだったジェフ・エメリックがビートルズのスタジオワークの一部始終を著した。ビートルズについては、あたかもその場にいたかのようなフィクション本が多い中、この本は実際にその場にいた人が書いたものだけに迫力がある。本そのものも616頁と大迫力。『ザ・ビートルズ・ソングブック』(ソニーマガジンズ)は、ビートルズが発表したすべての楽曲の対訳を収録。英詞はコードネーム付き。

 頭の中にあるビートルズの音楽が、好きな時に好きな所で取り出せる。で、時々CDを聴くと、あれ、こんな音鳴ってたかな、なんて、また新たな発見があるわけです。で、脳内ビートルズを調整する。ですからそんなに四六時中聴いてるわけじゃありません。
 初期に限っていえば、ビートルズの歌詞づくりはあんまり上手くないですね。もともと彼らはプロのソングライターを目指していたんですが、あくまでも曲づくりがメイン。でもポップスには歌詞が必要だというんで、やむを得ず作詞をしていたようなんです。それと彼らの中に、ポップスの歌詞は他愛ないことしか書いちゃいけないという意識があったみたいなんですね。ビリー・ジェイ・クレーマー&ダコタスに提供した楽曲に「I’ll Be ON My Way」というのがあるんですが、その中で“moon—June”という韻を使っている。まぁわざとかもしれませんが、こんな陳腐な韻を平気で使うところに、当時の彼らの歌詞に対する意識が出ていると思います。
 ですが中期から後期に入ると、ポールはすごくよくできた小説っぽい歌詞を書くようになりますし、ジョンの歌詞も、とくにヨーコとの出会い以降、ぐっと説得力や迫力を増しました。具体的に歌いかける対象ができたからでしょう。
 好きな歌詞は、たとえばアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の「A Day In The Life」。とくに冒頭の”I read the news today”のあとに入る“oh boy”がいいですね。「いやはや」とか 「まいったな」といった意味合いの言葉で、べつになくてもいいんですが、これが入ってくることで、歌詞にほどよい遊び心と、無常感がつけくわえられる。こういう、ごく簡単な言葉で広がりを持たせるのが、ビートルズはほんとに上手かったと思います。
 ロンドンにはまだ行ったことがありません。一度は行ってみたいですし、空港がジョン・レノン空港に名称替えしたリバプールにも、当然、飛行機で乗り付けたいんですが…。ニューヨークにはけっこう行っていて、ダコタ・ハウスの前に立ったりもしましたが、ロンドンはなんだかハードルが高くて。『ビートルズ—ロンドン ビートルズの歩き方』(プロデュース・センター刊)なんて本を読むと、おなじみのアビイ・ロード・スタジオ以外にも、行っとかなきゃいけない場所だらけなんですけどね。

取材・文/森澤郁夫

奥田祐士
翻訳家


中学3年生の頃、赤盤・青盤を聴いてビートルズ・ファンに。音楽誌編集者を経て現職。現在、EMIミュージックからリリースされているビートルズ作品の歌詞対訳も手がけている。現在、ビートルズとも縁の深いフィル・スペクターの評伝を訳出中(来春、白夜書房から刊行予定)。


006.jpg

1.ポール・マッカートニーのワールドツアー海外盤ツアーパック。'89年にアルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」を発表したポールは、10年ぶりのワールドツアーを敢行。ビートルズの'66年以来24年ぶりの来日も果たした。森氏が初めて担当したポールのアルバムがこの作品であり、その際にツアーパックを手に入れた。日本盤発売のなかった、ナンバリングもされている貴重なアイテム。
2.ツアーパックの中身。ポストカードやポスター、アルバム、特典盤の8センチシングル、ファミリーツリーなどが封入されている。

 以前、ビートルズの担当をしていた時、オノ・ヨーコさんといろいろやりとりをしていたんです。プロモーション来日の仕切りとか、ニューヨークのダコタ・ハウスでの取材とか。で、「ダブル・ファンタジー」のデジタルリマスター盤を出した時に、僕の名前をスペシャルサンクスのクレジットに入れてくれたんですよ! それは僕の末代までの自慢ですね(笑)。
 ビートルズと並行して、ポール・マッカートニーも担当していました。エンターテイナーとしての総合力は、彼はあの4人の中では圧倒的に持っていたと思いますね。だから彼の曲で1曲だけ選んでと言われたら、ライヴの「ヴィーナス・アンド・マース」から「ロックショー」にいって、「ジェット」へのメドレーって答えるんです。'80年のウィングスとしての来日が中止になってしまって見られなかったって恨みもあるんですが(笑)、このオープニングって絶対鳥肌モノだったと思うんですよ。まぁ、3曲なのでかなりの反則技ですが…(笑)。
 アビイ・ロード・スタジオには何度か行きましたね。イギリスっていい意味で古くてもいいものは残しておく国だと思うんですけど、あそこにも当時のピアノがそのまま置いてあったりして。それって風格が全然違いますし、ここでやっていたんだっていう説得力がありますよね。ただある時、わりと早めにスタジオから出されてしまったんです。おかしいな?と思ってたら、その直後にポールがレコーディングに来たらしくて。もし会えてたら、かなりの感動だったでしょうね。

取材・文/野上瑠美子

森 俊一郎
ワーナーミュージック・ジャパン ストラテジック本部 本部長


東芝EMI(現・EMIミュージック)時代にビートルズ、ならびにポール・マッカートニーを担当。現在、「ポール・マッカートニー・アンソロジー 1970-2005」(ワーナーミュージック/通常盤税込¥6900)が発売中。40曲以上のビデオクリップと2時間以上のライヴ・パフォーマンスを収録した、3枚組DVDだ。


本 秀康

1. 本 秀康氏。並べられているのは、膨大なジョージ・ハリスンのシングルコレクション。
2.アルバム「All Things Must Pass」のパッケージを真似し、ジョージの位置に本氏の人気キャラである"レコスケくん"を、その周りに小人たちを配した立体作品。以前行われた展覧会の際、本氏の友人が作製したもの。同アルバムの"ニュー・センチュリー・エディション"の発売時、それまでモノクロだったパッケージをカラー化。本氏と友人がそれに衝撃を受け、その色を参考に仕上げたという、本氏にとってのお宝アイテムだ。

 最初いいなって思ったのは、やっぱりレノン&マッカートニーなんですよ。でも「Something」と「Here Comes the Sun」を聴いた時に、あのジョージが、ここまでのものを作れるようになったんだなってことに驚いて。インド音楽のよさも吸収しつつ、ジョージなりの音楽を作ったというか。フツーの人が天才に成長していく、サクセスストーリー的な部分にも憧れて。あとジョージって、ビートルズのサブカル担当みたいなところがあると思うんです。僕もガロ系の漫画家なんで(笑)、そこはリンクしてるかなぁと。まぁ好きだからこその、強引なこじつけかもしれないですけど(笑)。
 ジョージが70年から住んでいた、ヘンリーにある"フライヤー・パーク"って家を以前見に行ったんです。それはねぇ、もうよかったってことしか言いようが…(笑)。僕はソロ時代のジョージが好きだから、リバプールのジョージが育った家より、この地の方が感じ入るものがありました。すごく田舎なんだけど建物は厳かな感じがあるし、この街に住んでたからこそ、あの音楽が生まれたのかなって。美しい街でしたね。
 「All Things Must Pass」! 僕はこのアルバムのジャケットが、これ以上ないと思うくらい完成されたものだと思ってて。緑の地平線、その前に主人公がいて、後ろに森があるっていう。僕の描くイラスト、全部これですからね。本当このジャケットにはイラストレーターとして影響を受けたと思いますし、僕にとってジョージは、まさにヒーローです!

取材・文/野上瑠美子

本 秀康
イラストレーター、漫画家


ジョージへの想いをつづった漫画「レコスケくん」が増補改訂版「レコスケくん Complete Edition」(ミュージックマガジン/¥1500)としてパワーアップ。「月刊IKKI」にて連載中の「ワイルドマウンテン」の最新刊5巻(小学館/¥630)も現在発売中。
公認ファンサイト http://www.recosuke.com/


004.jpg

1.店長兼マネージャーの河辺実さん。「高校生とか新しい世代にもビートルズ・ファンが増えています。親が聴いているんでしょうね。今聴いても新鮮ですよ。だってビートルズだもの(笑)。
2.3.'60年代のイギリスをイメージしたお店は、ビートルズ関連のポスターなどが並ぶ。

 僕がビートルズを知ったのは、1970年くらいに東芝のステレオのTVCMで「Let It Be」が流れてから。本格的に好きになったのは名画座で映画『A Hard day’s Night』を観てからですよ。4人がスクリーンの向こうから走ってきてね。それは衝撃的でしたよ。その時の感動が忘れられなくて、リバプールなんて名前のライブハウスまでつくってしまった(笑)。
 ビートルズは音楽だけではなくて、ファッションなど、その時代の流行をつくっていきましたよね。彼らは、その影響力が注目されがちですが、ミュージシャンとしても超一流なんですよ。何が凄いって、4人ともボーカルが取れる点です。それでコーラスもできる。そのうえ楽曲がつくれて演奏ができるわけだから、スーパーバンドですよ。ビートルズが成功した鍵はドラムスがピート・ベストからリンゴに替わったこと。派手に叩くのが上手なドラムスじゃないんです。気の利いた、ここぞという時にポンと入れるドラムスが良いんですよ。そこのところをリンゴ自身も自覚していたし、他のメンバーも評価していた。ジョージにしたって、E.クラプトンがジョージに憧れていた、なんて話を「?」と思って聞く人が少なくないんですが、彼のリード・ギターも実に的を得たフレーズなんですよね。コードプログレッションの中で自由に弾くのは難しくはないんですけど、ピタリとハマるフレーズを持ってくるのは簡単ではないですよ。
 ビートルズが今なお根強い人気を誇っているのは、再結成が絶対にないからでしょうね。今全員が生存していたら、ビートルズ人気というのは、かなり違ったものになっている筈です。
 ロンドンにはマダム・タッソーの蝋人形館、アルバム『Please Please me』のジャケットにもなったBBCスタジオがありますよね。地元ではビートルズ・ツアーも催行されてますよ。

取材・文/森澤郁夫

河辺 実
国立リバプール


25周年を迎える老舗のライブハウスを運営。月1〜3回、土・日曜にビートルズ・デ イを開催。12/16(日)はメンバー全員が女性のビートルズ・バンド「ザ・チェル シー」ほか、日本を代表するビートルズ・コピーバンド「THE REAL」が出演。
http://www.bekkoame.ne.jp/~liverpool/


fujimoto.jpg
fujimoto_02.jpg

1. 藤本さんのビートルズ初体験シングル『SHE LOVES YOU』(モノラル版)。ジョンとポールの共作で、この1枚でビートルズは世界的な人気を確立した。録音後にマスターが破棄されてしまい、純正のステレオ音源は現在も存在しない。実は、彼がビートルズにハマったきっかけとなったのはB面の『I’LL GET YOU』。「ジョン・レノンとポール・マッカートニーの楽しそうな声の混ざり具合」に惹かれたそう。1曲だけと言われたとき、今でも選ぶ作品だ。「音を良くすると評判だった」プロテックシールは当時のレコード愛好家の証。

 ビートルズの作品には、1枚1枚に必ず発見があるんですよ。耳にするたびに違うように聴こえる何かがね。彼らの曲をリミックスして作り上げた『LOVE』が’06年に出たときには、「生きてて良かった」とさえ思いました(笑)。
 ビートルズは8年間の活動で213曲を発表したわけですが、変化することを厭わずに挑戦し続けていったのがすごい。曲も風貌も、初期と後期では同じアーティストとは思えないほど違う。レコーディングの手法やプロモーションビデオの制作をはじめ、先駆的な試みも多いし、彼らが立ち上げたアップルも、今で言うインディーレーベルの走りですよね。
 ロンドンでは、そのアップルのオフィスがあったビルやアビイ・ロードがファンの訪問先としては定番ですが、ジョン・レノンとオノ・ヨーコが出会ったピカデリーサーカスのインディカギャラリーや、『BEATLES FOR SALE』のジャケットの舞台となったハイドパークもいいですね。ほの暗い夕方の公園を歩くと、独特の湿った空気が感じられて…。
 ビートルズは、神のように崇める対象ではなく、聴くとエネルギーをもらえる存在。いつもそこに当たり前のようにいる、かけがえのない“空気”のようなものですね。
『IT’S SO HARD』で「生きるのは大変」とジョンは歌っていましたが、だからこそ日々を楽しく過ごしていきたいなと。彼らの曲が発禁になっても、頭の中で歌っていると思いますよ。『LOVE ME DO』から『THE END』までを、ね。

取材・文/松浦達也

藤本国彦
CDジャーナル編集主幹


'61年生まれ。現在、Webの『CDJournal.com』やムックなど、出版元である音楽出版社の音楽媒体すべての主幹を務める。「今も『CDジャーナル』では年に2回くらいビートルズ特集を組んでいる。それほど、ビートルズは僕の人生を楽しく狂わせてくれた(笑)」。
http://www.cdjournal.com/


yokota.jpg

1. 27歳のとき、「ビートルズが4人で所有した」というエピソードに惹かれた’60年製のストラト・キャスター。当時でも約120万円と高額だったため、会社から借金をして購入。「当時はいい木材を厳選していて、ネックも反らないしボディも驚くほど軽い。何より音がまったく違う」。THE MODSなどのアーティストもレコーディングで使用している。
2. ビートルズに因んだミニカーは、英国コーギー社製。香港出張時に発見し、以降月イチペースで買い集めた。全種類をコンプリートした際には、嬉しさよりも寂しさが先に立ったとか…。

 実は昔、アビイ・ロード・スタジオの隣に住んだことがあるんです。人生を決めかねていた22歳頃に、「UKロックが好きだから行ってみようかな」と軽い気持ちで、イギリスに留学したら、突然借りた部屋を追い出され、行くあてがなくなった。でも、次の部屋の保証人を頼める知り合いもいない。困り果てて思い出したのが、日本の友人から聞いていた「ゲイの人は親切」という格言(笑)。英語もロクに話せないのに、ゲイバーに飛び込み、目についた人を拝み倒して引き受けてもらったんです。その名も“ポール”。もちろん、“マッカートニー”ではありませんでしたが(笑)。
 イギリスにいた頃は、『Time Out』というロンドン版『ぴあ』のような情報誌をチェックしては、「MARQUEE(マーキー)」などのライブハウスに通っていました。時には、エリック・クラプトンの前座がエルトン・ジョンという、夢のようなライブに出くわすこともありました。あのワクワク感こそ、ロンドンならではの楽しみのひとつなのかもしれません。
 初めて、僕がビートルズを聴いたのは中学2年生頃。当時は、横浜銀蠅が好きだったのに、姉から毎月1本ずつUKロックを集めたオリジナルテープを押しつけられ、そのうちにすっかりビートルズにハマってしまった。最初に聴いたのは『ブラック・バード』で、テープに入っていたビートルズも中期以降の曲ばかり。実は、当時の姉の彼氏がプログレ好きで、間接的にその影響を受けていたみたいなんですよね(笑)。

取材・文/島影真奈美

横田 衛
SMAエンタテインメント 横田ルーム・チーフ


'69年生まれ。22歳でソニーレコードをいったん退職し、約1年間英国に滞在。帰国後SMAエンタテインメントに再入社し、レコード制作全体に係わる“A&R”やディレクター、アーティストのマネジメント全般に携わる。現在は井上陽水氏の娘、依布サラサなどを担当。
http://www.nagai-neko.com/


matuo.jpg

1.IMAGINE PEACE TOWER(アイスランド)の前で撮影されたマツオ氏。
2.オノ・ヨーコの作品集「Grapefruit:A Book of Instructions and Drawings」。さまざまな指示とイラストで構成された、アーティスト、オノ・ヨーコの代表的な作品集。ジョン・レノンは本作を読んで非常に感激し、この中にある1フレーズから名曲「イマジン」を誕生させた。
3.マツオ氏はアイスランドでの取材時、ヨーコやリンゴ・スターらに会い、ヨーコ本人からサインをもらった。今回の取材をしてみて、彼女のクレバーさに非常に驚いたという。

 ビートルズとの出会いは小学校5年生くらいの時。それからは夫婦生活みたいなもので(笑)、つかず離れずって感じですが、最近、より好きなんですよね。知れば知るほど魅力的なアーティストというか。僕もラジオ番組のプロデューサーというモノづくりの端くれなんですが、お手本になることがすごくたくさんあるんですよ。ユーモアがあって、自由で、実験的で、なおかつポピュラリティーもある。現在のポップミュージックの原型も、全部ここにあると思いますね。
 今年の10月8日、オノ・ヨーコさんが"IMAGINE PEACE TOWER"という光の塔をアイスランドに作られたんです。僕も番組(以下プロフィール参照)の取材で現地に行ったんですが、点灯する時「イマジン」がかかったんですよ。その瞬間、ブワッと鳥肌が立って…。ジョンの魂は消えてしまったけれど、彼の音楽やメッセージは残り続けるんだなって。そういう素晴らしさを、この塔を見た時に改めて感じましたね。
 ビートルズを感じたいのであれば、絶対リバプールに行った方がいいですね。彼らの原風景、詞の世界観はリバプールにこそありますから。やはり生まれ故郷に行かないと、アーティストのルーツや息吹みたいなものって感じられないじゃないですか? そういう意味で、彼らの曲のディティールっていうのは、すべてあの街にあると思います。
 僕にとってビートルズは…、先生みたいなもの。だから僕の母校はビートルズです! まだ留年中ですが…(笑)。

取材・文/野上瑠美子

マッシュルーム・マツオ
J-WAVE(81.3FM)制作部 番組プロデューサー


小学生時代からのファンで、ビートルズゆかりの地を巡るのが趣味。
12/7(金)20:00~放送される「IMAGINE~ジョン&ヨーコからのメッセージ」の演出、構成、プロデュースを担当。オノ・ヨーコへのインタビューなど、ジョン・レノンの真実に迫る特別番組だ。
http://www.j-wave.co.jp/johnlennon/


ニュース&トピックス

私のビートルズ


e-days「イーデイズ」は大人の感性を刺激するWEBマガジンです。