

インタビュー 新宿『DUG』中平穂積
エッセイ3 椎根和
エッセイ2 後藤健夫
エッセイ1 片岡義男
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 後編
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 前編
エッセイ3 椎根和
エッセイ2 後藤健夫
エッセイ1 片岡義男
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 後編
相倉久人×菊地成孔 「植草甚一とマイルス・デイヴィス、そしてジャズ」 前編
椎根和 Yamato Shiine 作家
1942(昭和17)年福島県生まれ。早稲田大学卒業。「平凡パンチ」「anan」編集部勤務、「POPEYE」編集長、「日刊ゲンダイ」「Hanako」「relax」などの創刊編集長として編集畑を一貫して歩き、「平凡パンチ」時代に植草甚一さんの担当編集者であった。著書に「平凡パンチの三島由紀夫」(新潮社)がある。
1942(昭和17)年福島県生まれ。早稲田大学卒業。「平凡パンチ」「anan」編集部勤務、「POPEYE」編集長、「日刊ゲンダイ」「Hanako」「relax」などの創刊編集長として編集畑を一貫して歩き、「平凡パンチ」時代に植草甚一さんの担当編集者であった。著書に「平凡パンチの三島由紀夫」(新潮社)がある。
植草甚一さんは“大”前衛であった。いまから80年前、20代の植草さんはアンドレ・ブルトンの「シュールレアリズムと絵画」という本を読み、前衛=アバンギャルドを、生涯の生き方の基調音とした。小説、映画、絵、音楽などの各分野の、最先端の動きを愛した。
そこのところを作家、池波正太郎は“きたえぬかれたモダン根性”と評した。前衛はそれを好きになるものに過大な体力と金力を要求する。“きたえられる”のだ。
実生活では、まじめに家庭を守り、離婚などといった青二才がやるような所似はしなかった。日本橋の大きな商家の長男という出生が、前衛好きの律義な大旦那風という独得の容貌をつくりあげた。

50、60代の彼は大旦那風というより、マフィアの大ボスという風格があった。晩年3度のニューヨーク滞在中にいりびたった古本屋の親爺も、古本好きの本物のマフィアの親分がやってきた、と思ったにちがいない。NYには古書コレクションが趣味という“ボスのなかのボス”が実在した。
植草さんは79年に心筋梗塞でなくなった。その79年に2枚組LPアルバム「GREATEST HITS OF MR.J.J.」(日本フォノグラム)をリリースした。2枚のアルバムの表裏4面とも、フサフサした茶色の毛皮の上に植草さんの特技のコラージュ作品をおいたデザインになっていた。ジャケットがよいとレコードの内身もいいという植草さんの考え方がよく表現された、見事なものだった。
Vol.1の方は「植草甚一 ジャズの世界」という内容。最初はクリフォード・ブラウン、マックス・ローチの「サンドゥ」、次に植草さんと鍵谷幸信の対談が肉声で入っている。落語の名人クラスの、いいバリトンでややかすれ声が植草さん。
「まぁ、きっかけは、ビレッジシンガーの『ガラスの都会』というんで…、ストラビンスキーと共通点があったですね…、実験ジャズっていうのは、面白いなぁと思っていたら、それがプログレッシィブ・ジャズとかモダン・ジャズという名前に定着したわけですが…。とにかく古本屋歩きが好きだったから…、いまでも買っとけばいいなと思っていたのが、やっぱしモンクですね。行くたんびに買おうと思って、買わなくて、ほかのものを買っていました」
まさに言文一致というか、喋ることが、そのまま植草文章になっている。
“とにかく古本屋歩きが好き”の“古本屋”の発音が、いつもぼくが植草さんと話をしていて、ハッと目覚めさせられた“フルボンヤ”とフランス語風に発せられている。“フルボンヤ”と植草さんの肉声が入っているだけでも、このLPは価値があった。B面はチャーリー・ミンガス、エリック・ドルフィーの「A列車で行こう」からスタートし、マイルス・デイビスの「モーテルのディナー」。キャノンボール・アダレイ、ジョン・コルトレーンの「ワバッシュ」、エリック・ドルフィーの「ミス・アン」と続く。最後に植草さんのナレーションが入っていて、「まぁ、ミンガスが死んじゃったことで、だいたいまぁ、ぼくのね、ジャズファンが終っちゃったなぁと思った」とミンガスが好きだったことを告白している。
2枚目の方は「映画の世界」。ヌーヴェルヴァーグ映画のなかで使われた音楽、「死刑台のエレベーター」のマイルス・デイビス、「危険な関係」のアート・ブレイキーなどが収録されている。
亡くなる直前にだしたLPだから、植草さんは、自分の好きなジャズだけを入れたのだと思う。しかし植草さんと同時代でジャズを聞いていたぼくたちは、“前衛中の前衛”、アルバート・アイラーのLP「ゴースト」が入っていなかったことが少し不満だった。当時は植草さんはアイラーが大好きなんだってねえ、と噂しあっていた。アイラーは本当に“喋る”ようにテナーサックスをふいていた。
しかし植草さんは自分の最初で最後のLPでチャーリー・ミンガスにオマージュをささげた。ミンガスのベースの音が、ぼくたちにとどくよりもはるか何倍の大きさで、植草さんには聴えたのだと思う。
横浜・野毛にあったジャズ喫茶「ちぐさ」のマスター、吉田衛は、ミンガスの魅力の根源には、ディキシーがあると喝破した。植草さんは独身の昭和10年代に、お金があると横浜のチャブ屋に10日間も泊りこんだ。当時のチャブ屋は1階がダンスホール、2階が女の個室になっていた。そこで聞いた洋楽が、戦後JAZZへの愛の入り口となった。横浜とニューオリンズは似ている。港町で音楽と女の好きな人間がたむろしている。ディキシーはそんな街から生まれた。
植草さんが亡くなって、梅子夫人は、5万冊の本と、2千枚のレコードをきれいさっぱりと処分した。レコードはなかなか売れ先がみつからなかったが、金持になっていたタモリが、まとめて2百万円で買ったといわれた。5万冊の本の方は、神田の古本屋でバッタ売りにされた。

