2009.04.23UP
●今までにない音楽世界を作ろうとしている予感

――銀次さんは「プリーズ・ミスター・ポストマン」が最初のビートルズ体験だったんですよね?
そうです。中学2年生だったと思うんだけど、小学校の頃は洋楽なんて聴いたことがなかったからプレスリーとかは直接体験がなくて、中1の終わりくらいにテレビの国際ニュースで初めて"今イギリスをはじめとする英語圏でビートルズの人気がすごい"っていうのを見た。女の子がキャ~って言ってて、ビートルズが追い掛け回されてる。これはなんなんだろう、と。学校で"ビートルズってそんなにすごいの?"って洋楽をよく聴いてる友達に訊いたら"すごいよ"と。"貸してくれない?"って言ったら貸してくれたのが、「プリーズ・ミスター・ポストマン」と「マネー」のカップリングのシングル。それまでは全然普通の子だったんだけど、それを借りて家に帰ってステレオにかけた瞬間に、どっか行っちゃった。全然別の世界を知ったの。今まで経験したことのない興奮。新聞で『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』をやってる映画館を見つけて行って、1日中いましたもん。それからラジオを聴くようになって、ストーンズとかビーチ・ボーイズとか映画音楽とかも好きになった。だから本当にビートルズが僕の音楽の入り口。
――どこにそんなに惹かれたんでしょう。
メロディが切ないんだよね。あと激しさ。あの当時のハードロックと言えるくらい、ドラムの音がデカかった。シンバルとかタンバリンがしゃんしゃんしゃんしゃん鳴ってて、ギターがジャカジャカいってて。あとはジョン・レノンの声。攻撃的でいながら甘いっていうのが、ちょうど13~4歳の子供から大人になる思春期の不安定なところに響いたんじゃないですかね。「エニイ・タイム・アット・オール」とかもね、みんな切ない。
――『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』はどこが面白かったですか?
演奏してるところ。とにかくビートルズが演奏してるところが見たかった。あの当時、森永か明治か忘れたけど、チョコレートのCMに『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』のシーンが使われてて、それを見るだけですごく興奮した。当時日本ではベンチャーズも大ブームだったんですよ。でもベンチャーズは黙ってギターを弾いてるだけだからあまり興味がなかった。ビートルズはギターをかき鳴らしながら歌う、コーラスをするところがすごく好きで。だから彼らが歌うシーンを見たかった。セリフを暗記するくらい見たね。『ヘルプ!』はそうでもなかったけど、『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』は何度でも見たくなる映画だった。
――ギターもすぐに持ち始めたんですか?
高校に入るとき、志望校に受かったらギターを買ってやるって言われて頑張って、当時でいちばん安い国産のグヤトーンの12500円のギターと25000円のアンプを買ってもらって、それから練習を始めたの。楽譜を買ってきてワクワクして弾こうとしたんだけど、合わない。なにを考えてたか知らないけど、日本人にはビートルズのキーは高すぎるからって下げてあるわけ(笑)。ひどかったのは「キャント・バイ・ミー・ラヴ」。キーがマイナーなの。AメロがC7じゃなくてCmになってて哀しい曲(笑)。全然合ってない。自分でコピーしようと思ったのはそれがきっかけ。レコードに針を落としながら1音1音解明していった。エドガー・アラン・ポーの「黄金虫」だっけ? 暗号を解読するやつ。アルファベットでいちばん多く使う字はEだからそこから解明していく、それと同じ。でもビートルズのコードは難しくてなかなかとれなかった。最初にコピーしたのはハーマンズ・ハーミッツの「ミセス・ブラウンのお嬢さん」。キーがC だったから(笑)。高校の1年先輩にブルース・ハープの妹尾(隆一郎)さんがいたんですよ。出会いを今でも覚えてるんだけど、妹尾さんが放送部の部長だったの。お昼休みにお弁当を食べてると、アニマルズとかキンクスとかがかかるわけ。誰がかけてるんだ? って思って放送室に訪ねていったら妹尾さんがいて。妹尾さんはベースを弾くの。「オール・マイ・ラヴィング」をベース弾きながら歌える、そんな人は妹尾さんしかいなかった。で、妹尾さんと学園祭に出るビートルズ・バンドを組んだ。それが人前での最初の演奏。そういえば僕が覚えた「ミッシェル」のコードは三原綱木の「ミッシェル」(笑)。ブルーコメッツが「ミッシェル」をテレビでやったときに覚えた。親指で6弦を押さえるやり方はかまやつ(ひろし)さん。あの押さえ方がかっこよかった。ビデオなんかないから、テレビを食い入るように見て覚えるしかない。
――その後はリアルタイムでビートルズの変化を体験していったわけですね。
そう。今でも覚えてるけど、「悲しみはぶっとばせ」を聴いたときに、今までの甘く切ないビートルズとは違うぞ、ってわかった。俺はどこかへビートルズに連れていかれる。それまではただのポップス、エンターテイメントの音楽だと思ってたのが、未知なる場所へ、ビートルズに連れていかれる気がしたの。次の『ラバー・ソウル』はジャケットからして違う。とにかくビートルズに連れられて不思議な旅に出発した気がしたね。『リボルバー』もそう。何かが起こっている。ビートルズが何かを起こしている。今までになかった音楽の世界を作ろうとしてるんだ、っていう予感があった。「トゥモロー・ネバー・ノウズ」の最後の電子音を聴いたときは不安と胸騒ぎ。次はどうなっちゃうんだろう、って。『サージェント・ペパーズ』を予約して地元の楽器屋さんに取りに行った日のことは今でも忘れない。ジャケットを見たとき声が出なかった。これはなんなんだ、と。家に帰って聴いたら今まで経験したことのない音楽。でも僕の中のビートルズ・ヒストリーは『サージェント・ペパーズ』までなの。そのあとも聴いてたけど、ビートルズに導かれてどこかに連れて行かれるっていうのはここまで。『ホワイト・アルバム』はそれより前には進んでいない。これは僕の持論なんだけど、ビートルズが先頭に立っていろんな音楽をポップスに取り込んできたことによって、プログレとかの今までポップスのジャンルじゃない人たちが市民権を得た。ジミ・ヘンドリクスとかピンク・フロイドとかね。つまりビートルズは自分にとってもいろんな音楽への紹介者で、ビートルズを介してクリームやヤードバーズを聴くようになったわけで、そういう人たちが市民権を得て出てくると、ビートルズはちょっと古くさい気がしてきた。何故かっていうと、ビートルズはロック以前の音楽、ポピュラー・ミュージックやイージー・リスニング的なものも含んでるから。それがまたよかったわけだけど、世の中がどんどんロックになっていくとちょっと甘ったるいものに聴こえていた時期があったんだよね。僕はその当時17~8歳だから、過激派だよね(笑)。だからあまり聴かなくなってた。ただビートルズは間違いなく僕にとってのスタート地点。ここから僕はスタートして旅に出た。だからその頃の僕はビートルズに対して"行ってきます"って時代だったかもしれない。
――親離れし始めた子供みたいな。
そうそうそう。そこから何を勘違いしたのかハードロックに走ってツェッペリンやハンブル・パイみたいなことをやろうとした時期もあったんだけど、やっぱ違うな、って思った。僕が好きなのは五目味なんですよ。「ヘルター・スケルター」みたいな激しい曲と「ハニー・パイ」みたいな甘い曲が1枚のアルバムに入ってるのが好きなの。五目味サウンド。焼肉弁当みたいなのは好きじゃないわけ。

――幕の内弁当が好き。
そう。ビートルズは幕の内弁当だもん。だから結局僕はビートルズの考え方の上にずっと乗っかってる。自分がアルバムを作るときもそう。僕のアルバムのバランスは全部ビートルズ。ひとりビートルズみたいなもんですよ。あと、ビートルズっていうのは過去・現在・未来の中継地点、キーステイションなの。ビートルズからさかのぼってルーツ・ミュージックを辿ったっていうのがすごく僕の中で大きい。ビートルズは早くからバート・バカラックを聴いてたし、ありとあらゆるポピュラー・ミュージックを聴いて、それを自分たちなりに咀嚼してた。僕がビートルズの次に好きになったのはザ・バンドなんだけど、僕にとってザ・バンドは70年代のビートルズ。それもビートルズっていうキーステイションから行ったってこと。この歳になると自分のルーツを探りたくなるんだけど、「ラヴ・ミー・ドゥ」とか「涙の乗車券」とかの風変わりなメロディ、ポップスにはないようなこのメロディってなんなんだろう、って昔からずっと思ってた。ジョンとジョージとポールはアイルランド系で、リンゴはスコットランド系でしょ。一時期アイルランドやスコットランドの音楽、ブルーグラスとかに惹かれて聴いてたんだけど、ある本に、アメリカでビートルズがなぜあんなにウケたかが書いてあって。アイルランドやスコットランドからの移民の人たちがたくさんアメリカにはいたわけで、キャ~キャ~騒いでる女の子たちの染色体がどこかで聴いたことのある旋律を感じたんじゃないかな、って。だから僕ももっとビートルズからさかのぼってアイルランドとかの音楽を聴くようになった。ビートルズは本当に僕にとって座標軸のゼロのところ。そこを起点にいろんなところに行った。
――最初にロンドンに行ったのはいつですか?
沢田研二さんの『ストリッパー』のレコーディングで、ちょうど80年くらいだったからニューウエーヴとかニューロマンティックとかが全盛の頃。そのとき僕はアレンジャーとして行ったからいろんなとこに観光できなかった。リバプールへ行ったのは88年だったか89年だったか。東芝時代に3枚連続でイギリスでレコーディングしたときに行きました。でもほら、僕は不埒なビートルズ・ファンだから(笑)。この街からビートルズは出たんだな、っていう感慨はあったし、ストロベリー・フィールズとかペニー・レインとかキャバンクラブとかマージー川の船着場とか行ったけど、そんなに感動はしなかった。もっと若いときに行ってたら興奮してたと思うけど。
●僕にも曲が書けるんだと教えてくれた
――ジョンが亡くなったときのことは覚えていますか?
今でも覚えてるけど、アレンジの仕事を家でしてて、FENを聞いてたら"ジョンが死んだ"っていうニュースを聞いた気がしたのね。まさかそんなわけはない、聞き間違いじゃないかと思って、佐野(元春)くんに電話したの。佐野くんも"えっ!?"って。1時間くらいして佐野くんから電話がかかってきて、本当だった、と。あれはショックだった。ビートルズを解散した後いろいろな運動をしたり子供が生まれて育児に専念したり、なにかにつけて人生の先輩として注目してたから、ジョン・レノンがいなくなると自分で考えていかなきゃいけないな、と思った記憶がある。
――リアルタイムでビートルズを体験できたのは本当にうらやましいですよ。
僕がビートルズにミーハーだったのは『ヤァ!ヤァ!ヤァ!』を何度も見に行ったときだけかもしれない。生意気だけどね。僕がビートルズにいちばん感動したのは、音楽教育を受けてないのにあんなにオリジナルが書けるっていうこと。つまり僕にも曲が書けるんだ、って思えたから。それまでは学校に行って勉強して音符が書けたり読めたりしなきゃダメだと思ってたんだけど、彼らは楽譜が読めなかった。ジョージ・マーティンがそういう部分をサポートしてくれていたけど、メロディは自分で好きなポップスを聴いて培った素養で作ったもの。最初から音楽家になりたかったんだよね、僕も。ビートルズみたいに曲を作りたかった。ビートルズは"曲は誰にでも作れるんだよ"って教えてくれた。それがいちばん大きかったな。
取材・文/佐々木美夏
1950 年12月24日生まれ。大阪府出身。72年"ごまのはえ"の一員としてデビュー。次に結成した"ココナツ・バンク"のプロデュースを依頼したことがきっかけで大瀧詠一と知り合い、シュガーベイブ(名曲「DOWN TOWN」は山下達郎との共作)、大瀧・山下との『ナイアガラ・トライアングルVol.1』など、日本のポップス・シーンの礎を築く。77年初ソロ・アルバム『DEADLY DRIVE』リリース。その後も沢田研二、アン・ルイス・佐野元春、ウルフルズなどのプロデューサー、アレンジャー、バンド・メンバーとして活躍。『笑っていいとも!』のテーマソングも手がけた。07年からはソロ活動も再開し、09年は弾き語りによる全国ツアー『STAND ALONE』(リクエスト受付中!)を精力的に展開している。
伊藤銀次オフィシャルサイト http://www.silvertone.jp/
