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2009.03.06UP

カーディガンの季節

 連載が開始され多くの方からメールをいただいた。

 過去に大きな手術を受けた人たちから反響があったのは、前回の「音楽のない夏」を読んで共感をいただいたからだと思う。誰もが手術のとき、あの音楽に疑問を抱いていたのだ。なんかちがうんじゃないかと思っていたのである。誰かがそのことに触れなくてはいけなかった。けれど、気にはなっても、それほど問題にすることもないと多くの人はやり過ごしていたが、むしろ、それが普通だ。ことさら問題にするのがおかしい。

 だが、書いてよかった。

 あれが気になっていたのが自分だけじゃないと知っただけでも意味があった。しかも、ある方からのメールによれば、有無もいわさず強引に、「モーニング娘。」が手術で流されたという。どうなんだ。まあ、人の好みはいろいろだから、頭ごなしにだめとも言いたくないが、手術にモー娘はないと思うのである。

 しかも、麻酔が効いて意識がなくなったらなんの意味もなくなる。

 一方、連載をはじめるにあたり、いったい「プログレッシブ人生」とはなんなのか、それはどんな人生か、と問われもした。まったく説明せずにはじめてしまったのは失敗だった。いきなりの「プログレッシブ人生」だ。どういう意味だと問われても致し方ない。字義通りに解釈すれば、「進歩的人生」ということになるが、では、「プログレッシブロック」を聞いていた者の誰もが、「進歩的だなあ」と、いったん日本語に訳して理解していただろうか。そう言葉にしていただろうか。もっと感覚的に「プログレッシブロック」は使われていたはずで、さらに短縮し、「プログレ」と口にしていたにちがいないのだ。

 以前もべつの場所に書いたことがあるが、カタカナの言葉や英語は、訳す場合と、あえて訳さずに使う場合がある。人は器用に使い分ける。八〇年代から、九〇年代の終わりにかけて六本木に「WAVE」という店があった。おしゃれな音楽ショップだった。それを人はわざわざ日本語にしただろうか。

「波」

 どこの海の家だ。
 人はそんなふうにいちいち訳して口に出さず、「WAVE」はあくまで、「WAVE」だったし、「プログレッシブ」は、やはり「プログレッシブ」でなければいけなかったのである。「プログレッシブ」は、「プログレ」と短縮されて使われることもあった。だから、

「音楽、どんなの聴く?」

 そんなふうに質問された者が、「もちろん、プログレさ」とふざけたことを口にするような光景は、かれこれ三十年以上も過去、しばしば目したものだった。それでなにかわかりあえた気がしたし、この端的な「プログレ」という言葉の背後に、共有する文化があったからこそ、会話が展開できた。
 だとしたら、次のような会話は成り立つだろうか。

「人生、どんなふうに生きる?」
「プログレ」
 そんなやりとりなど見たことがない。

 だいたい、そんなことを許したら大変なことになるではないか。人は、しばしば、楽なほうに流れるものなのだ。とりあえず、「プログレ」と言っておけばいいと思うような傾向が生まれたらどうするかだ。

「あなた、晩御飯、きょうなに食べたい?」
「プログレ」
 つまり、「先進的な晩御飯」だ。

 言われた主婦は困惑するが、「プログレプログレ」とぶつぶつ呟きながらスーパーに行く。なにをどうすれば先進的なのだろう。なにしろ、「保守」はだめだ。「プログレ」でなければいけない。けれど残念ながら、食べる側にしてみれば料理のよろこびは、いつまでも変わらぬ「日本の味」のような「コンサバティブ」にある。

「出汁と味噌をぬいた、味噌汁」

 たしかにプログレッシブだ。だけど、それは単なるお湯ではないか。

「ピザソースを抜いて、チーズをダブルで、と頼んだデリバリーピザ」

 それは、ピザトーストに近いなにものかだ。しかも自分で作ってないし。けれど、そんなことをデリバリーピザ店に頼む態度はすごい。それをプログレといえば、プログレと言えなくもないし、じつは私はかつてよく実行していた。べつにプログレな気分ではなく、単にピザソースに飽きたからだった。

 だが、そんなことはどうでもいいのである。

 つい、「プログレッシブ人生」というタイトルについて話が長くなってしまったが、ほんとうは今回、「カーディガン」について書こうと思っていたのである。「プログレッシブ」のあとは、「カーディガン」かよと、いぶかるむきもあるかと思うが、音楽において、カーディガンは考えることが数多くあるアイテムだ。たとえば、カーディガンズというバンドがいるではないか。あるいは、先日、久しぶりにCS放送で観たのは、MTVアンプラグドのライブに登場した、あれはたしか一九九二年頃のニルバーナだ。カート・コバーンがてろーんとしたカーデガンを着ていたけれど、それがとても魅力的に感じた。

 さらに、つい最近、もともと英国史などを専門にし、服飾史にも詳しい中野香織さんの『モードの方程式』(新潮文庫)を読んでいたら、そこに意外な文章が出てきたので、そのことに触れたかった。
 中野さんはいきなりこう書いている。

「劇作家の宮沢章夫さんが『カーディガンを着る悪党はいない』という爆笑エッセイを書いているが(『牛への道』)、たしかにカーディガン姿の男性には、おっとりとした善良そうなイメージが漂う」

 まず、意外な場所に自分の名前が出てきたことに驚かされたが、それ以上に、このエッセイ、その名も「カーディガン」によると、「カーディガン」の意外な姿が歴史のなかから浮かび上がるのを教えられるのである。だが少し長くなってしまう。この続きは、また次の機会に書くことにしよう。前回から二週間あいだが空いてしまったが、次はもう少し早くするつもりだ。「カーディガン」のことはどうしても早く読んでもらいたい。

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宮沢章夫
1956年生まれ。多摩美術大学中退。中退後、なにもしない時期を経て、24歳でさまざまな種類の執筆業をはじめる。80年代半ば、竹中直人、いとうせいこうらとともに、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を開始。その作演出をすべて手掛ける。90年、「遊園地再生事業団」の活動をはじめる。その第2回公演『ヒネミ』で、93年、岸田戯曲賞受賞。その後、舞台作品多数。ほかにもエッセイをはじめとする執筆活動、小説発表などで注目される。2000年より、京都造形芸術大学に赴任。劇作家。演出家。小説家。現、早稲田大学教授。
PAPERS http://u-ench.com/
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