



立川直樹氏は音楽、映画、美術、舞台など幅広いジャンルで活躍する傑出のプロデューサー。 1949(昭和24)年東京・浅草の生まれ。封切り映画館の色彩豊かな看板、芝居小屋にはのぼりが立ち並び、浅草がエンターテインメントの聖地だった頃、祖父や母親の影響で幼少時から芝居を見ることや映画が大好きだったという。また、家で流れていたダイナ・ショアの『青いカナリア』がいちばん最初に好きになった曲だそうだ。
中学3年のときにボリス・ヴィアン(※1)の『墓に唾をかけろ』を読み、漠然とアヴァンギャルドな生き方に共鳴し、ビートルズを始め、ロックを数限りなく聴くようになるが、好奇心の間口は広く、ジャズ、ポップス、映画音楽なども蓄積されていった。
21歳のときに『ヘッド・ロック』という当時では斬新なライトショーのプロデュースを手掛け、その才能に注目されるとすぐにGSのザ・タイガースの野外コンサートの舞台美術の依頼を受け、のちテレビ映画の音楽監督、ロック・バンド、コスモス・ファクトリーのプロデューサー、また雑誌には音楽評論やインタビュー記事を載せ、ビートルズ、ピンク・フロイド、クィーン、ポリスなどの著書を出版。
60代後半から今日に至るまでのその足跡は、プロデュースしたアーティストやイベントを知るだけでも凄い!のひとことにつきるのだが、今回はその断面にふれながら、今後の話を伺った。
プロデューサーとしての立川直樹氏の仕事で特筆すべきが1982(昭和57)年に行われた「ルキノ・ヴィスコンティ・プロジェクト」だ。