


「高校2年の終わりにバンド活動もすっぱりとやめて、自分なりに人生のプランをたて、スペイン語を学んで南米へ行くという目標を持っていたんです。受験はクリアしたものの、その後の授業が厳しいというのがプランのなかになかったんですね。4年間で1言語を習得するわけですから考えたら当り前なんですけど、へこんじゃって(笑)。軽音楽部に入りびたりになり授業には出なくなりました」
高橋氏は1952(昭和27)年、東京生まれ、広島育ち。幼少の頃からトニー・ダララの『ラノビア』などが好きだった洋楽少年。ラジオから流れるヒットパレードを聴き、テニスや空手などスポーツにも熱中する中・高校生だった。中学2年のときに初めてギターを手にする。クラスメイトに町支寛二氏、山崎貴生氏(共にAIDOのメンバー)とグルックスなるバンドを作り、ママス&パパスやサイモン&ガーファンクルなどをコピーし.高校のとき広島フォーク村に参加。吉田拓郎氏と接点ができていた。
大学生活に迷いのある頃、同じく東京で学生生活を送る町支氏の友人のアパートへ行くと、そこに浜田省吾氏がいた。
「町支が上京していた浜田を誘って、山崎と3人でバンドを始めていた。浜田はすでに詞を書いていたんですね。で、ここで初めて紹介されて詞を読んだんですよ。凄く強い意志を持っていて、それからみんなでいろいろ話しているうちに『ベースが欲しい』ってことになって、『じゃいいよ』みたいな話で、バンドに入りました」
高橋氏は大学を辞めた。(他のメンバーも)みんな、アルバイトに精を出すが、東京では練習スタジオを借りるのもままならない。その後、高校の後輩の青山徹氏が加入してAIDOは5人になり、本格的にプロを目指し始めた。彼らは全員、一度広島に戻って、練習とアルバイトに明け暮れることになる。
「大学を辞めてしまって、親元に帰るのは複雑でしたけど、プロになるという目標がはっきりしていたので充実していました。とにかくみんな、練習しなくてはどうにもならないって分かっていたから不安もあった。はっぴいえんどを聴くと凄くて、これじゃダメだと必死でしたね」
その後、幸運なことに広島フォーク村の先輩の伝手で、1年足らずで吉田拓郎氏のバックバンドを務めることになり、再び上京。
1974(昭和49)年4月京都会館第一ホールで初めてのプロのステージを踏んだ。メンバーの年齢は22歳前後。春、夏のツアーを経験し、その後初めてのレコーディングに入る。
「レコーディングに入るまでは自信満々でした。拓郎さんのツアーでそれまで行ったことのない店で飲ませてもらったり、バックで演っているだけで、意識だけは生意気で勘違いしていたんですね(笑)。で、世間知らず。1曲録るのに10時間ぐらいかかって、録ることは録ったんだけど、全然駄目なんですよ。もうショックで、お互いに、エッみたいな。とにかく吉野金次さん(はっぴいえんどのエンジニア)に大胆にもやってもらって、吉野マジックで何とかいいものに仕上げてもらったんですけど、吉野さんに『君たちは後、3年か4年活動したら凄く良いバンドになると思うよ』って言われて。ちっとムカっとしたんですけど、そのことはのちに分かるんです」